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真宗の葬儀作法

よくある質問

 
Q なぜ遺影でなくご本尊を中心に安置するの?
Q ご本尊を中心に安置すると、遺影や白木位牌の置く場所は?
Q 葬儀壇にご本尊はないものと聞いたけど、安置しないといけないの?
Q 葬儀社が、自社手持ちのご本尊の安置を勧めてますが?
Q ご本尊のまわりには、なぜ家紋を飾らないの?
Q 一膳飯・剃刀(守り刀)・一本立て線香には、どんなふさわしくない意味があるの?
Q 葬儀特有の決めごとに、仏事として疑問に思うものがあるけど?



Q なぜ遺影でなくご本尊を中心に安置するのですか?

真宗の葬儀式にある意義を明らかにするためです。 普段より、真宗の仏事は寺の本堂やお内仏など、ご本尊を中心とした場で行われますが、先達はその尊前を法座とし、聞法の場としてきました。 つまりこれらの場には、仏の教えに出遇い救われる場としてほしい、という先達を貫いてきた願いが込められています。 その願いの象徴としてご本尊が中心に安置されているわけです。 真宗の葬儀式にも同じように、
この亡き人を送り出す場を仏の教えに出遇い救われる場としてほしい、という尊い願いが込められています。 ですから真宗門徒の葬儀式はご本尊を中心にしてきたわけです。 単に亡き人にお別れをして送り出す儀式ではなく、参列した者全員に対しても、仏の教えに出遇う場となるよう開かれ願われている場なのです。


Q ご本尊を中心に安置すると、遺影や白木位牌の置く場所が、葬儀壇のカタログとは違う場所になりますが?

A はい、葬儀壇のカタログでは中心に遺影や法名(白木位牌)が置いてあるのがほとんどですから、違う場所になるのが当然です。 単にご本尊を中心に安置するだけでなく、
ご本尊が中心となった葬儀式であることが分かるような飾り方をしなければ、それこそ大事な意味の欠落した葬儀壇となってしまいます。 必ずご本尊を中心に安置し、遺影や法名などのお飾りは必ず中心を避け、なおかつご本尊を邪魔したり隠したりしないように置いてください。


Q どこかで、葬儀壇にご本尊は安置などしないものだと聞き及びましたが、やはり中心に安置しないといけないのですか?

A はい。諸般の事情で葬儀壇に安置していない場合もありましたが、原則は変わりません。必ず安置してください。 かつて、屋外の葬儀でご本尊を外に安置することは、かえってご本尊を蔑ろにするような状態となり、事実上不可能でした。 しかしながらご本尊に代わる石塔や名号などを中心にしてお勤めをしたりして、
葬儀式全体を通してみれば、ご本尊を中心とした形となっていました。 現代において屋外での葬儀はまずありません。 今やご本尊を中心に安置することに何の制限もありませんから、きちんと中心に安置してください。


Q 葬儀社が、自社手持ちのご本尊の方が立派だからと安置を勧めますが?

A いいえ。
ご本尊は単なる道具ではありません。 葬儀社に任せるべきか、寺院に任せるべきかは言うまでもないでしょう。 葬儀社に手継寺との相談を勧めてください。 


Q ご本尊の御前には、なぜ家紋を飾らないのですか?

A 家紋は、武家の旗印に使われていたように、ある一族/一家を特定し、その「家」を奉ずる(大切にする)意志を象徴するものとして使われてきました。 つまり家柄/家系を第一とし、その枠の中にいる人間とそうでない人間を分け隔て、一族で結束する象徴であります。 ですから家紋は、我が一族を第一とした場である、と表すものです。 家紋を飾るということは、その一族が中心となり、それ以外の者はその一族に招かれて参列する、という意味合いの場になってしまいます。
 ご本尊中心の葬儀とは、亡き人の一族であるかないかにかかわらず
すべての者が分け隔てなく平等に亡き人を悼み、そして見送る場であります。 同一姓の一族であるかないかは、死を悼む気持ちの強さとは元来別のことであり、亡き人とのつながりの深さを直接表すものではありません。 そしてなにより、この場を尊い縁として仏道を歩んで欲しいという願いには、一族であるなしなど関係するはずもありません。 誰にでも開かれている、そういう場であることをはっきりさせるご本尊でもあります。ですから、そのご本尊に込められた意味と願いにそぐわない、「家」を第一とし人間を分け隔てする意味を持つ家紋は、真宗の仏事にふさわしくないのです。 亡き人を含めたすべての人に対し、分け隔てのない道が開かれていることをはっきりさせる「家紋無し」なのです。


Q よく見かける一膳飯・剃刀(守り刀)・一本立て線香には、どんなふさわしくない意味があるのですか?

仏事とは違う意味合いが込められた道具だからです。 仏具とは似て非なるもの、と言えるでしょう。 三種ともすべて迷信的理由から供えられています。 一膳飯は死者の魂の安寧のため供えられた魂代わりの盛り飯とされ、守り刀は光りものによる魔よけとされ、一本立て線香は、一筋に上がる煙の様をもって迷わず成仏するようにと願う願掛けの意味があるとされています。 いずれも仏法とは似つかわしくない
迷信に基づくものですから、ご本尊そして真宗の葬儀にはふさわしくないのです。


Q 葬儀特有の決めごとには、仏事として疑問に思うものがあるのですか?

A はい。葬儀特有の決めごとの中には、明らかに迷信に基づいたものであるものを多数聞き及んでいます。 そのほとんどは「逆さごと」と呼ばれるもので、死と日常を切り離したいという思いから、わざわざ日常と逆のことをして縁起を担ぐというものです。
ほんの一例を紹介すると、ぬるま湯を作るときに普通は湯に水を足しますが、故人の身体をきれいにする湯潅の時には、わざわざ水に湯を足して作ったり(逆さ水)、故人の枕元に屏風をわざわざ通常と天地反対にして飾ったりするようです(逆さ屏風)。 いずれも葬儀特有のこととするべく、日常はしないこととされています。 つまり、日常はしない、行ってはならないとされていることをわざわざする場合は、すべて「逆さごと」と呼ばれる縁起担ぎと見ていいでしょう。
 死は「逆さごと」などで遠ざかったり近くなったりするものではありません。 そういう縁起担ぎをすること自体、仏法そして亡き人を蔑ろにする重大な誤りでしょうし、そうしたいという思い自体も、人間の不安な心を麻薬のように甘く包み込む迷信に囚われているが故のものです。
  人間の本当の姿に目を開けとはたらいているのが仏道であります。
仏教徒として、真宗の葬儀として懇ろに行うならば、これらの縁起担ぎからは勇気をもって訣別すべきでありましょう。

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