万葉集入門
| 1 |
万葉集〜とくに東歌の魅力について |
| 2 |
青春の香り |
| 3 |
姉と弟 |
| 4 |
近江遷都 |
| 5 |
十市皇女の悲劇 |
| 6 |
沓はけ我が背 |
| 7 |
望郷の歌 |
| 8 |
別れの歌 |
| 9 |
歌人旅人の最後 |
| 10 |
防人の歌 |
| 11 |
たゆたう命 |
| 12 |
家持の処女作 |
| 13 |
なでしこの花 |
| 14 |
越中の家持 |
| 15 |
かたかごの花 |
| 16 |
自然葬の風景 |
| 17 |
万葉集との出合い |
| 18 |
人生の奇跡 |
| 19 |
なびけこの山 |
| 20 |
人生の応援歌 |
| 21 |
惜別の歌 |
| 22 |
わたしの三輪山 |
| 23 |
神奈備山考 |
| 24 |
こころの旋律 |
| 25 |
愛と死を見つめて |
| 26 |
万葉の大地 |
| 27 |
蟋蟀は十色に鳴く |
| 28 |
万葉の旅(紀伊半島) |
| 29 |
かたかごの花 |
| 30 |
甦る家持の歌 |
1.万葉集〜とくに東歌の魅力について
信濃の山嶺はまだ白く、千曲川の水も冷たい。その流れの中に少女がたたずんでいる。少女の足元の清流を透かして、川底の小石が見える。彼女は腰を屈めてその一つを取上げた。そして、こんな歌をうたった。
信濃なる千曲川の川のさざれ石も
君し踏みてば玉と拾はむ
娘は河原まで、恋人を送りに来た。恋人は防人にとられて、はるか九州へ旅立って行く。
実はこの歌の作者は明らかではない。農民の生活の中から生まれた、素朴な歌であろう。こうした歌は東歌と呼ばれ、民謡として多くの人々に愛唱されたようだ。
素朴ではあるが、歌は豊かなイメージを持ち、しかもさわやかな清韻を帯びている。一般にサ行の音は涼しく澄んだ響きを与え、シ音はその中でも独特の音感がある。
この歌にもシ音が三つ使われている。「信濃なる」のシと、「さざれ石」「君し」のシである。他にサ音もある。口ずさんでみると、音の働きが生き生きと実感される。
一首のなかに、千曲川の清流が響いている。そして清水の底の小石や、娘の素足のきよらかさまで見えてきそうである。雪解けの水の感触が、心に沁みてくるようである。
万葉にはこのサ行の音を巧みに生かした名歌が多いので、いくつか引いておこう。
小竹の葉はみ山もさやにさやげども
我れは妹思ふ別れ来ぬれば
柿本人麻呂は山中で、淋しい笹の葉のそよぎに身を包まれている。そして、その笹鳴りの中で、人麻呂は別れてきた恋人のことを思っている。
サとヤの音の交錯の中に、サヤサヤと涼しくさびしい音が聞えてくる。この歌の中に笹の葉のそよぎが息づいているようだ。
世の中は空しきものと知る時し
いよよますます悲しかりけり
大伴旅人は太宰府へ赴任して、早々に妻を亡くした。妻の死によって世の中は空であるという仏教の道理は悟ったものの、そうした理窟は人を慰めない。彼の孤独な心は亡き妻を思って、いよいよ悲しくなりまさるばかりである。
この歌の清水のしみるような調べも、シ音の効果によるのだろう。
世の中を憂しとやさしと思へども
飛立ちかねつ鳥にしあらねば
同じ頃に筑前国の国守だった憶良の歌である。やさしは、身もやせ細るつらい思いを言う。ここでも重石のように沈むシ音が、有効に働いている。これによって、憶良の悲しみも、しんしんと心にしみ入る。
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて
寒き夕は大和し思ほゆ
志貴皇子の歌だが、シ音がしんしんと冷える旅寝の雰囲気を伝えている。そうした夜寒に鴨がおり、故郷を思う作者がいる。
ここでカ行の音韻について触れておくと、サ行のすずやかな流動性に比べて、カ行の音は透明に乾いた印象がある。硬質にかなしく澄んだ音感がある。
我が宿のいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕かも
家持のこの歌は音韻から見れば、カとサの音の効果が著しい。カサカサと鳴る竹の音、かすかな風の声が一首の中から鳴り響いて来る。
吉野なる夏実の河の川淀に
鴨ぞ鳴くなる山かげにして
湯原王のこの歌には、鴨の鳴き声のようなカ音が、調子よく三つ続く。そして吉野なるのナ、夏実のナはなめらかにうねって、鴨ぞ鳴くなるのナに受継がれる。ナ音の柔らかさがうまく使われている。
この韻律によって、山陰に身を浮き沈めさせている鴨の姿も浮かぶようである。湯原王は志貴皇子の子だが、親子そろっていい歌を残している。
高貴な身分の人の歌が続いたところで、再び東歌の世界に帰ってみよう。上野の国の歌にこんなのがある。
上つけの安蘇のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き
寝れど飽かぬをあどか我がせむ
若者は娘を抱いて寝ている。その娘はあたかも刈りたての麻の束のようにしなやかで、日向の匂いがする。しかし抱いても抱いても愛しさは募るばかりで、どうしようもない。ああどうしたらいいのかと若者はもだえる。
一日の労働のあと、はち切れるばかりに健康な若者と娘は、草いきれの野原であいびきでもしているのだろうか。若者の舌たらずの歌いぶりが微笑ましい。
稚拙な歌のようだが、この歌には、ア音が見事に使われている。安蘇のア、飽かぬをあどか我がせむの、ア、ア、アの大らかな連呼は、そのまま無垢な若者の魂の叫びのようである。
多摩川にさらす手作りさらさらに
なんぞこの子のここだ愛(かな)しき
サ音の連なりが、爽やかな多摩川の清流を写している。娘が手作りの麻をさらしていて、布は白く水の中にたゆたい、少女はその清らかなリズムに身を任せている。ああその娘のなんと可憐なことだろう。水がさらさらと流れるように、若者の恋心もさらにさらに深く、愛しいものになっていく。
下句では、コ音を連ねて、若者の心の鼓動の高まりを表現する。「なんぞコのコのココだかなしき」と、刻み込むようなテンポの導入によって、歌のリズムは緩から急に転ずる。それが若者のせっは詰まった思いを、あざやかに伝えている。
若者は娘とめでたく結ばれたであろうか。しかし、運命は愛する者達にしばしば苛酷である。
恋人を残して防人として旅立った若者の歌を、次に引いてみよう。
筑波嶺のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆどこ)にも
愛(かな)しき妹ぞ昼も愛(かな)しけ
百合(ゆる)はユリの、愛(かな)しけは愛(かな)しきの、夜床(ゆどこ)は夜床(よどこ)の訛である。「筑波嶺のさ百合の花の」は夜床を導く序詞だが、山に美しく薫る花のイメージは、そのまま美しい恋人の姿に重なる。
若者は旅先で野の百合を見て、故郷の筑波山を思い、そして、さらに思いは故郷の恋人の上に飛ぶ。あたかも百合のように可愛い恋人よ、夜の床でもそうだが、昼間も何と可愛いかったことよ。
夏野行く牡鹿の角の束の間も
妹の心を忘れて思へや
柿本人麻呂集にある歌で、東歌ではないが、序詞を使った歌の作りが似ている。
夏の野を駆ける若い鹿。その小さな角の束の間も、あなたのことは忘れないと若者は訴える。野生の鹿のイメージが、若者の恋の心に生き生きとした生命の息吹きを吹込む。こんな素晴らしい歌を贈られて、なびかないような娘がいただろうか。
これは若い人麻呂が愛する娘に贈った歌だろうが、同じ人麻呂の歌集の中には、恋人から贈られたと思われる歌もある。
かにかくに人は云へども織り次(つ)がむ
我が機物(はたもの)の白麻衣
人は色々言うでしょうが、私はひたすら織っています。あなたに差上げるこの清らかな麻衣を。
さて、最後に引くのは、第十四巻、東歌二百三十首の掉尾の歌。
愛し妹をいづち行かめと山菅の
そがひに寝しく今し悔しも
この一首には挽歌という前書きがある。つまり男は愛する女を失ったのである。まさかこんなにあっけなく死ぬわけはないと思っていたから、喧嘩をして背中合わせに寝たこともあった。ああこんなことであれば、もっと慈しんでやりたかった。
山菅は葉先が乱れているので「そがひ」に掛かるのだろう。舌頭に転がしているうちに、ほろ苦い生の実感がこもる。
東歌はどれも愛を歌っている。しかし、愛は死の前に滅びなければならない。そして死の淵に生きる人間にあってこそ、愛は切なく、美しいのだろう。
万葉集の数々の愛の歌は、今も深い余韻のなかに息づいている。
(「作家」1989年11号に「東歌の世界」と題して掲載)
2.青春の香り
万葉集の歌はどれもみずみずしい青春の香りを持っている。たとえば、次の歌。
あしひきの山のしずくに妹待つと
我立ち濡れぬ山のしずくに (巻2 107)
山の中に身を隠して恋人を待っているうちに、すっかり夜露に濡れてしまった青年が、やっと現れた乙女に送った歌らしい。逢い引き相手の乙女の名は石川郎女(いしかわのいつらめ)である。彼女も又、すかさず歌を返す。
我を待つと君が濡れけむあしひきの
山のしずくにならましものを (巻2 108)
私は山のしずくになりたい。そして愛しいあなたの肌をぬらしてあげたい。こんなに機転のきいた、しかも情熱的な歌を返されたら、青年はもう怒るわけにはいかない。ただもう愛しさが募り、すぐにも恋人の肩を抱いて、熱い口づけをしたくなるに違いない。
青年の名前は大津皇子である。天武天皇の皇子で、文武に秀でた当代随一の貴公子。彼は人望があり、父の天武天皇からばかりでなく、誰からも愛された。しかしその人気が命取りになった。
686年9月に天武が死んだあと、一ヶ月もしないうちに彼の人気を恐れた皇后(のちの持統天皇)によって、彼は謀反の罪を着せられて刑場に送られた。皇后は自分の息子の草壁皇子だけが可愛かった。
百伝う磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を
今日のみ見てや雲隠りなむ (巻3 413)
これは大津皇子の辞世の歌である。磐余の池は今の桜井市池尻のあたりだという。皇子の后、山辺皇女は黒髪を振り乱し、裸足で刑場に走り、自ら夫に殉じて命を絶ったと「日本書記」は伝えている。
3.姉と弟
大津皇子には二つ年上の姉がいた。姉弟がまだ幼い頃に母親(大田皇女、持統天皇の姉)が世を去ったこともあり、二人は大変仲がよかった。姉の名前は大伯皇女(おおくのひめみこ)。彼女は大津皇子が十歳の頃、伊勢の斎宮となり、大和をはなれた。
天武天皇が死んだ後、大津皇子はこっそりと姉のもとを訪れた。たぶん身の危険を感じていたのだろう。自分の命の長くないことを予感していたのかもしれない。姉と夜っぴて語り合った大津皇子は、夜が明け切らぬうちに出発した。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて
暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし (巻2 105)
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を
いかにか君がひとり越ゆらむ (巻2 106)
姉と弟は離ればなれに暮らしていたが、心はひとつだった。姉は弟が今生の別れを告げにきたことを知っていたのだろう。だから、弟の後ろ姿が見えなくなってからも、いつまでも夜露のなかに濡れて佇んでいた。
姉の不吉な予感は現実のものとなった。10月3日に大津皇子は謀反人の汚名を着せられて自害させられた。時に24歳である。日本書紀は大津の謀反を記しながらも、彼の人品をほめあげ、「詩賦の興り、大津より始まれり」と彼の文才を惜しんでいる。大津皇子の亡骸は飛鳥の地にではなく、遠く離れた二上山の山頂に埋葬された。
うつそみの人にある我や明日よりは
二上山を弟背(いろせ)とわが見む (巻2 165)
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
見すべき君がありと言はなくに (巻2 166)
姉は11月に斎宮の職を解かれ、飛鳥に帰ってきた。もはや父の天武はおろか、愛する弟も横死していない。その身よりのない淋しさはいかばかりだったことか。上の歌はその哀しみをよく伝えている。
4.近江遷都
私が通勤路にしている木曽川の堤防から、美しい山々の姿が見える。伊吹山や御嶽山などの霊峰をはじめ、頂上にお城をのせた金華山、そのほかの名も知らないたくさんの山。そのなかに私が「三輪山」と呼んでいる山がある。
丸い紡錘形の山の姿が、去年の秋に山辺の道を歩きながら眺めた三輪山にそっくりなのだ。だから毎日、この山の姿を眺め、大和の三輪山を思い浮かべる。そうするうちに、何故古代の人々が三輪山に信仰を寄せたのか、何となく分かってきた。やはりその緑豊かな優しい山の姿に魅せられたのだろうと思う。
三輪山をしかも隠すか雲だにも
心あらなも隠さふべしや (巻1 18)
額田王が「近江に下りしとき」に作った長歌の反歌である。長年住み慣れた大和から近江への遷都は667年に行われたが、「書記」には「天下の百姓、都遷すことを願わず」と書かれている。百姓の中にはもちろん額田王らの王族たちも含まれている。
三輪山は額田王にとって毎日親しんだ故郷の山だったのだろう。大和への思いをこの山に託して、「雲よ、今一度山の姿を見せておくれ。情けがあるなら、隠さないでね」と訴えかけている。
翌668年1月に、中大兄皇子が皇位について天智天皇となる。同時に大海人皇子は皇太子の地位についた。この年の5月に天智天皇は多くの群臣や女官をともなって、蒲生野に遊猟にでかけた。このとき、すでに天智の妃になっていた額田王はかっての恋人であり夫であった大海人皇子とこんな歌のやりとりをしている。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き
野守は見ずや君が袖振る (巻1 20)
紫草(むらさき)のにほえる妹を憎くあらば
人妻ゆゑに吾恋ひめやも (巻1 21)
夫である天智天皇を野守と呼ぶ額田王のおおらかさはどうだろう。大海人の歌はさらに大胆である。「書記」によれば、額田王は大海人の間に十市(とおち)皇女を設けている。そして十市皇女は天智の嫡子大友皇子の妃になり、やがて壬申の乱で夫を失い、自分の父に夫を奪われるという悲劇を体験することになる。
5.十市皇女の悲劇
671年12月3日に天智天皇が死んだ。天皇の詔によって、大友皇子が天皇の後継に決まっていたが、近江朝の宮廷は混乱した。なかでも名門貴族である大伴氏の一族ははただちに大和の旧邸にひきあげ、大海人皇子(おおあまのおうじ)に肩入れする姿勢を見せた。
吉野に隠れていた大海人皇子は6月になって動いた。そして激戦の末、大友皇子(弘文天皇)を破り、7月23日には彼を戦場で自害させた。大津の都はたちまち略奪・放火され、廃墟になったというが、妃であった十市皇女(とおちのひめみこ)やその母の額田大王(ぬかだのおおきみ)は無事に保護されたようである。こうして国を二分して戦われた壬申の乱は終わった。
夫を失った十市皇女は父の天武天皇に連れられて、飛鳥に帰り、宮中にいたようだ。しかし、壬申の乱から6年後の678年7月7日の未明に、にわかに病を得て死んだ。彼女の異母兄である高市(たけち)皇子が彼女のために悲痛な挽歌を3首残している。
三諸(みもろ)の神の神杉夢にだに
見むとすれどもいねぬ夜ぞおおき (巻2 156)
三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短かゆふ
かくのみゆゑに長くと思ひき (巻2 157)
山吹の立ち儀(よそ)ひたる山清水
酌みに行かめど道のしらなくに (巻2 158)
あの世ののことを黄泉という。山吹の黄色と山清水の泉が死の世界を象徴しているのだろう。それにしても、これらの歌にこめられた思いの何と深く静かで、かなしいことだろう。歌が美しいだけに、よけいに心にしみこんでくる。
高市皇子は壬申の乱で父の大海人から全軍の指揮を任されていた。いわば十市皇女から夫を奪った張本人でもある。その心の痛みがいつか同情となり、やがては十市皇女への愛情へと変わっていったのだろうか。いや、そもそも二人は幼なじみであり、以前からの心の恋人であったのかもしれない。
実はここに意外な史実がある。じつはこの日、十市皇女は天武の命によって、斎王として送られることになっていた。まさにその直前に彼女が死んだのである。そこに何か偶然ではない、十市皇女の意図が感じれなくはない。
十市皇女は自害したのではないだろうか。そしてその事情を、高市皇子は知っていた。なぜなら二人は既に夫婦のちぎりを結んでいたと思われるからだ。「短かゆふかくのみゆゑに長くと思ひき」というのは「これだけの短いちぎりであったが、末永くと思っていた」ということらしい。
そもそも天武は二人の仲を裂くために、十市を斎王にしたとも考えられる。北山茂夫氏はその労作「万葉集とその世紀」のなかで、この線にそって、それが政略上の理由からであったことを考証している。そうすると。娘の突然の死によって、二人の仲を裂くという天武の望みはかなえられた。しかしそれは思っても見ない悲しい結末だった。神の祭りは中止され、十市の葬儀が行われたが、その場に天武の姿もあったという。
十市皇女の母は、かって山大兄(天智)と大海人(天武)の寵愛を受けた。その娘だけに、さぞや美しかったに違いない。万葉集中に彼女の歌は残っていないようだ。残念と言えば残念だが、それだけによけいにミステリアスな女性に思われる。
ところで、母親の額田大王は長生きして、天武天皇の死をも見届けている。やがて持統天皇の世になって、彼女は弓削皇子から送られた歌に、こんな返しをしている。
いにしへに恋ふらく鳥はほとほとぎす
けだしや鳴きし我が恋ふるごと (巻2 112)
ほととぎすの声をききながら、額田王は自分の過去の恋の思い出にふけっている。しかしなんだか、とてもさびしい歌である。
6.沓はけ我が背
フタリシズカという花は、4,5月ごろ、ひっそりと山蔭に咲く。白い花穂が二つ、寄り添うように咲くので、この名がある。私の故郷の福井の山にも咲いていて、山仕事の合間、谷水で喉を潤した後、一休みした足下につつましく咲いていたのを覚えている。この花の古名は「つぎね」といい、万葉集にも歌われている。
つぎねふ 山背道を 人夫(ひとつま)の 馬より行くに
己夫(おのつま)し 徒歩より行けば
見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し
たらちねの 母が形見と 我が持てる まぞみ鏡に
蜻蛉領巾(あきつひれ) 負ひ並め持ちて
馬買へ我が背 (巻13 3314)
フタリシズカの咲く山城への道を、男たちは馬に乗って行くのに、自分の夫は、馬がないので歩いて通っている。そんな夫の様子を見ていると辛くてならない。「私の母の形見の鏡と領巾(ひれ)を持っていき、馬を買ってください」と妻は訴える。妻のこの歌に、夫はこう答えた。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし
石は踏むとも我はふたり行かむ (巻13 3317)
たとえ石を踏んでもかまわない。二人で歩いていこう、と夫はむしろ妻を思いやる。ほのぼのとした夫婦愛の感じられる歌である。同様な名もない夫婦の歌をもうひとつ。
信濃道は今の墾(は)り道刈りばねに
足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背 (巻14 3399)
これは賦役のために都に旅立つ夫を見送る妻の歌であろうか。万葉の人々は私たちより遙かに貧しい暮らしをしていた。しかし彼らの心は豊かで、ほのぼのと美しい。
7.望郷の歌
728年に大伴旅人は中納言の地位のまま、太宰師に任ぜられ、奈良の都を離れた。このときすでに64歳であった。住み慣れた都を離れることは、老境にあった旅人にとって、つらいことだったにちがいない。しかも、太宰府に着いてすぐに、妻を失っている。
世の中は空しきものと知る時し
いよよますます悲しかりけり (巻5 793)
この歌にはこんな詞書きが添えられている。「過故重畳し、凶問累集す。ひたぶるに崩心の悲しびを懐き、独り断腸のなみだを流す・・・」異境の地で頼りにしていた妻に先立たれた旅人の心中はいかばかりだっただろう。
わすれ草わが紐に付く香具山の
ふりにし里を忘れむがため (巻3 334)
わすれ草(ヤブカンゾウ)は黄色いユリ科の八重咲きの野草である。身につけると憂いを忘れさせてくれるという言い伝えがあった。そこで旅人も望郷の思いを断ち切るためにこの花を身につけた。しかし、あまり効果があったようには思えない。この後も、たくさんの望郷の歌が作られて行くからだ。
旅人が故郷とよぶ香具山の麓には青年時代の思い出が残っているのかも知れない。あるいはそこで亡妻の大伴郎女(いつらめ)と出会ったのだろうか。わすれ草の印象的な黄色い花は香具山の麓にも咲き乱れていたのではないだろうか。
ひさかたの天の香具山このゆうべ
霞たなびく春立つらしも (巻10 1812)
これは柿本人麻呂の歌である。旅人もこの歌を知っていて、口ずさんでいたに違いない。昨年の秋、私は大和を訪れ、甘橿丘から天香具山の麓の「ふりにし里」を眺めた。飛鳥川を眼下に眺めながら、旅人や人麻呂が歌に詠った光景をいつくしんだ。
ところで、旅人の赴任した太宰府には山上憶良や小野老といった名を知られた文人たちがいた。そしてやがて旅人を中心にして、太宰府に歌壇が作られていくことになる。
あおによし奈良の都は咲く花の
匂ふがごとく今さかりなり (小野老 巻3 328)
天ざかる鄙に五とせ住まひつつ
都の風習(てぶり)忘らえにけり (山上憶良 巻5 880)
わが園に梅の花散るひさかたの
天(あま)より雪の流れ来るかも (大伴旅人 巻5 822)
旅人や憶良は漢詩を作る教養豊かな知識人であった。その彼らが晩年になって歌を詠むことに熱中した。彼らの歌には人生への思いが託されている。「述志の文学」と言われるゆえんだが、老年とは思えない若々しい「青春」の香りに満ちているところがすばらしい。
8.別れの歌
大伴旅人が太宰府にいたのは3、4年だった。しかし、ここで培われた歌のポテンシャルが後に、旅人の息子の家持に受け継がれ、やがては万葉集という世界にもまれな大歌集を生み出す力になっていく。そうした意味でも、天の配剤によるこの希有な機会があったということは、私たちにとって幸せなことである。
730年10月、大納言に栄進した旅人がいよいよ都に帰ることになった。そのとき、児島という遊女が、見送りの人々の中から進み出て、「会うことに難きを嘆き、泪を拭ひて、みずから袖を振る歌」を送ったという。
やまと路は雲隠りたり然れども
我が振る袖を無礼(なめし)と思ふな (巻6 966)
衆人環視の中で、旅人は悪びれもせず遊女と別れを惜しみ、歌二首で彼女の気持ちに答えている。いかにも人情家らしい旅人のおおらかな人柄がしのばれる歌である。
大和道の吉備の児島を過ぎて行かば
筑紫の児島念(おも)ほえむかも (巻6 967)
大夫(ますらを)と念(おも)へる我や
水茎(みずくき)の水城の上に涙拭はむ (巻6 968)
水城(みずき)というのは、7世紀の後半に太宰府を海外の敵から守るために造られた堀で、今も福岡県太宰府市にその遺構が残っているという。たぶん旅人はこの歌を遊女に返しながら、あふれる涙を拭っていたに違いない。
太宰府の長官であり、武門の貴族の統領でありながら、旅人にはまったく貴人としての気取りがない。ただ相手をひとりの人間として、あたたかく抱擁する気持があるばかりだ。彼は生まれも育ちも一流だが、人間としても一流の人物だった。
生けるもの遂にも死ぬるものにあれば
今あるほどは楽しくあらな (旅人 巻3 350)
世の中を何にたとへむあさ開き
漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと (沙弥満誓 巻3 351)
旅人は自分や仲間たちの歌が後世に残るとは思っていなかっただろう。しかし後に残ったのは、旅人や彼の仲間たちの歌ばかりではない。名前もしらない農民や兵士、遊女の歌まで数多く残った。そしてそのことをなし遂げたのは、息子の家持だった。
9.歌人旅人の最後
大伴旅人は奈良に帰る途上、歌をいくつも作っている。
吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は
常世にあれど見し人もなし (巻3 446)
吾妹子(わぎもこ)というのは太宰府で亡くなった妻のことである。九州に下るときは一緒に眺めたのであろう。それが今は見る人がいないという。長旅の疲れもあったのだろうが、喪失感は奈良の家に帰って、さらに深くなる。
人もなき空しき家は草枕
旅にまさりて苦しかりけり (巻3 451)
吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに
心むせつつ涙し流る (巻3 453)
奈良の家に帰って眺めた梅は、亡き妻が植えたものだった。妻がいないので、花を一緒に眺めることが出来ない。しかし旅人がその花を眺めるのも、それが最後になった。やがて旅人は病を得た。
そして病床にあった彼の脳裏に蘇ったのは、やはり天の香具山の麓の「古りにし里」であった。いまそこに萩の花が咲いている。
指進(さしずみ)の栗栖の小野の萩の花
散らむ時にし行きて手向けむ (巻6 970)
しかし、旅人は再び出かけることは出来なかった。病床で、「萩の花は咲いているか」と尋ねた後、息を引き取ったという。735年秋7月。享年67歳であった。
かくのみにありけるものを萩の花
咲きてありやと問ひし君はも (余明軍 巻3 455)
余明軍は大伴家に使えた資人である。彼は主人旅人を追悼する歌を6首、万葉集に残している。またこれより少し前に、太宰府の沙弥満誓から書簡と歌が届いていた。
ぬばたまの黒髪変わり白髪(しら)けても
痛き恋には会う時ありき (巻3 573)
満誓は旅人の人柄によほど惚れていたのだろう。そうでなければ「痛き恋」などという言葉をかっての上司に使うはずがない。旅人が死んだ佐保の邸に、14歳の家持とその弟の書持(ふみもち)、そして妹がひっそりと残された。
10.防人の歌
万葉集巻20には防人の歌が93首並んでいる。防人は崎守といい、九州、壱岐、対馬の防衛のため、東国から徴収された兵士である。任期は3年だったが、3年経って無事故郷に帰れるという保証はなかった。
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に
影さえ見えてよに忘られず (巻20 4322)
水を飲もうとすると、そこに妻の顔が写っている。ああ、妻は私のことを恋いこがれているのだな、と思って男の胸も切なくなる。男の名前は若倭部身麻呂、遠江の国(静岡)に住んでいた農民である。
古代の人々は、夢に恋しい人の姿を見ても、それは恋人の魂がやってきたからだと考えた。だから、「夢に見る」と言って、「夢を見る」とは言わなかった。水に浮かんだ妻の面影も、実際妻の魂がこちらにやってきたと考えた。
水鳥の立ちの急ぎに父母に
物言はず来にて今ぞ悔しき (巻20 4337)
防人に指名されれば、有無を言わせず、農民は九州へと駆り立てられる。妻や家族と別れさえ惜しんでいる暇はなかった。上の歌は駿河の国(静岡)の有渡部牛麻呂のものである。彼も又、運悪く防人に選ばれ、出発をせき立てられたのだろう。
我が母の袖もち撫でて我がからに
泣きし心を忘らえぬかも (巻20 4653)
上総の国、物部乎刀良(おとら)の歌である。家を立つ間際、母親が自分の袖にすがりついてきて、泣いた。その深い心が忘れられないと青年は歌う。彼にはまだ妻や恋人はいなかったのかもしれない。つぎは、相模の国の丈部造人麻呂の歌。
大君の命畏(かしこ)み磯に触(ふ)り
海原渡る父母置きて (巻20 4328)
戦時中、私たちの父や祖父も赤紙一枚で戦場にかり出された。そして多くの人が故郷を遠く離れた異境の地で果てた。その遺体の多くは山野や海底に白骨として残されている。
たとえば、沖縄の激戦地であった摩文仁の丘の断崖下にはいまも手つかずの遺骨が多数眠っている。そこは50年間遺棄され続けたゴミで埋もれている。毎年遺骨収集奉仕団が結成され、ごみをかき分け、異臭の中で、砲弾や手榴弾、有毒なハブの恐怖にさらされながら、遺骨収集を続けているという。
(今年も今月末に全国から100人あまりのボランティアが現地に集合して遺骨収集作業をするそうです。83歳の老人から11歳の少年まで、すべて参加者の自己負担で。くわしくは昨日の朝日新聞朝刊「声」の欄の「ごみに埋まる沖縄戦の遺骨」をごらんください)
さて、万葉集に93首もの防人の歌を収めたのは、大伴家持である。755年、彼は兵部省の要職(少輔)にあった。彼はあらかじめ東国の国府に、防人たちの歌を集めて提出するように命じた。家持はそれを万葉集の巻20に、提出順に並べた。
彼自身も、「防人の情(こころ)となりて思いを陳べて作る歌」をかなり作っている。そのなかの一首をあげておこう。
海原に霞たなびき鶴(たづ)が音(ね)の
悲しき宵は国方(くにへ)し念ほゆ (巻20 4362)
11.たゆたう命
730年(天平2年)太宰府師であった大伴旅人が、任を全うして、瀬戸内海を通り、帰郷する。そのとき太宰府から従ってきた随員の歌が万葉集に残っている。そのなかの一首。
家にてもたゆたう命浪の上に
浮きてし居れば奥処(おくが)知らずも (巻17−3896)
「家にいてさえも、落ち着きなく揺れ動いている私のこころである。まして、こうして慣れない船旅をして、波の上に命を浮かべていると、その心細さは底知れないものだ」読み人知らずの歌だが、生に対する深い、根源的な不安感がうたわれていて、なかなか見事だと思う。
この歌は折口信夫が絶賛していた。私は彼に教えられて、この歌の底知れぬ魅力を知ったのだが、案外、知らない人が多いのではないだろうか。もう一首、私が愛唱する歌を万葉集から引いておこう。
もののふの八十(やそ)宇治川の網代木(あじろぎ)に
いさよふ波のゆくへ知らずも (巻3−264)
こちらはよく知られた柿本人麻呂の名歌である。網代木にせかれて揺れ動く波の姿をみつめているうちに、いつかそれが自分の心のありさまに重なってくる。人生という行方もわからない旅を生きる私たちだれしもが経験する、はるかな思いがここに歌われている。
12.家持の処女作
「万葉集」には私の好きな歌人や歌がたくさんある。折に触れて、私はそれをひもとき、口ずさんでみる。今日は大伴家持のこんな歌を口ずさんでみた。
振りさけて若月(みかづき)みれば一目見し
人の眉引(まよびき)思ほえるかも (巻6−994)
家持16歳(733年)の頃の歌である。処女作だとも言われるが、じつにみずみずしく美しい歌である。この歌には家持の美しいものに対するはるかな憧れが感じられる。しかもその美は、三日月、一目見し、眉引き、どれをとってもあえかで繊細である。
こういう感受性の豊かな青年が恋をして、しかもその愛する恋人と死別することになったらどうだろう。実は、このことが実際に起こった。家持は22歳の時に最愛の妻を失っている。
それは天平11年6月。このとき家持が妻の死を悲しんで作った歌が万葉集巻3に12首(462−474)残っている。しかもこれらの歌は死後直後から秋にかけて断続的に作られており、彼の心の痛手の大きさが思われる。
今よりは秋風寒く吹きなむを
いかにか独り長き夜を宿(ね)む (巻3−462)
秋さらば見つつ思(しの)へと妹が植えし
屋前(やど)の石竹(なでしこ)咲きにけるかも (巻3−464)
妻は自分の死を予期していたのかも知れない。それで、春になでしこの種を蒔いたのだろう。自分が死んだ後、それが花を着ける。その花を自分だと思ってしのんで欲しいというのだ。家持がどういう気持でその花を眺め、この歌を歌ったか、それを思うと私は涙ぐまずにはいられない。
13.なでしこの花
ふたたび、大伴家持のことを書いてみたい。彼には書持(ふみもち)という仲のいい弟がいた。家持の妻が死んだとき、弟はこんな歌を詠んで兄を慰めている。
長き夜を独りか宿(ね)むと君が云へば
過(す)ぎにし人の念(お)ほゆらくに 巻3−463
この歌は家持の歌の下の句をそのまま上の句にしている。兄のこころに直によりそい、生前の兄嫁を思慕している。書持という人の素直さや、やさしさがしのばれる歌である。
やがて家持は二十九歳の頃、国司として越中へ下る。そのとき弟は途中まで兄を送ってきた。奈良山をこえ、泉川まできて、二人は馬を下り、別れを惜しんだ。家持はそのとき、「無事に帰ってくるから、どうか神様に祈って待っていてくれ」と弟に言い残して、心細い思いでふるさとの奈良を去っていった。
家持は越中に746年から751年まで足かけ6年間滞在した。その間に家持が詠んだ歌が220首も万葉集に残っている。父親の旅人や憶良が太宰府で歌を詠んだように、彼もまた鄙ざかる異境の地で、歌人としての才能を一気に開花させた。その中で、花を詠んだ歌が60首ばかりある。
なでしこが花見るごとに少女(おとめ)らが
笑(え)まひのにほひ思ほゆるかも 巻6−414
なでしこの花を見る度に、家持は死んだ妻のことを思いだし、この歌を残したのだろう。彼は花が好きだったばかりでなく、花を通して、死んだ妻を思い、望郷の思いを募らせていたようである。
14.越中の家持
天平18年(746年)7月に大伴家持は弟の書持に見送られて奈良を後にした。ところがその年の9月5日、家持は越中で弟の突然の訃報に接する。家持は長歌で花の好きだった弟をしのんだあと、反歌で、
まさきくと言ひてしものを白雲に
立ちたなびくと聞けばかなしも 巻17−3958
かからむとかねて知りせば越の海の
荒磯の海を見せましものを 巻17−3959
妻を失ったとき、一緒に悲しんで歌を贈ってくれたやさしい弟、わずか2月前に「どうかごぶじで」と途中まで馬を並べて自分を見送ってくれた、その最愛の弟が今は火葬にされて白雲となって空に棚引いているという。越中に来たばかりの家持にとって、この報せはショックだっただろう。
朝床に聞けばはるけし射水川
朝漕ぎしつつ唄う舟人 巻19−4150
4年後の750年の3月2日、家持は朝床で射水川を漕いでいく舟人の唄を遙かな気持で聞いている。この歌も数々の家持の歌の中で私が愛唱する歌の一つだ。
15.かたかごの花
大伴家持について、もうすこし書いてみたい。大伴家といえば天皇家を守護する武門の名だたる家柄で、旅人は太宰府の長官のあと、中央に復帰して大納言の官位を得ている。しかし、その直後に死んだ。まだ11歳だった家持が、嫡男として大伴家を継ぎ、氏の長者にならなければならなかった。
幼い家持を助けたのが叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)である。歌人としても有名な彼女は旅人の異母妹であり、家持の叔母である。家持はこの才媛の誉れ高い叔母から歌ばかりでなく氏の長者としてのしきたりを習っとおもわれる。すでに母を亡くしていた家持にとって、彼女は母代わりでもあった。家持と弟の書持は彼女の庇護のもとで、少年時代と青年時代を過ごしたと思われる。(家持には他に妹が一人いたらしい。その歌も残っている)
名門の貴公子であった家持は随分女性にもてたようだ。万葉集には家持に心を寄せる女性達の情熱的な歌がたくさん残っている。しかし妻と弟を失い、越中の国司になったころの家持の身辺は淋しかっただろう。しかし彼にもやがて人生の春が訪れる。
奈良への帰郷を明くる年に控えた天平勝宝2年(750年)1月頃、叔母の坂上郎女の娘を新しい妻として越後に迎えることになったのだ。彼女の名前は坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)。家持とはいとこの間柄であり、もちろん幼なじみである。同じ年の3月1日から2日にかけて、家持はこんなに明るく美しい歌を書き留めている。
春の苑(その)紅にほふ桃の花
下照る道に出でたつをとめ 巻19−4139
もののふの八十(やそ)をとめらがくみまがう
寺井の上のかたかごの花 巻19−4143
梅の花の下に立ってほほえんでいるのは、ひよっとして都からやってきたばかりの新妻かもしれない。そして、近所のお寺の井戸には、村の娘達がやってきて賑やかに水をくんでいる。そのかたわらに咲きこぼれるかたくりの花の何という可憐でうつくしいことよ。
この頃が家持68歳の生涯のうちで一番しあわせな時代だったのかもしれない。やがて都に帰った家持をまちうけていたのは、藤原氏を中心として醜い政争にあけくれる貴族達の姿だった。
家持のいた国府跡が富山県新湊市の勝興寺にある。その裏に赤坂谷というところがあって、寺井らしい井戸やかさかご(かたくり)の群落が残っているという。もうそろそろ花を着けている頃ではないだろうか。私も一度この地を訪れてみたいものだと思っている。できれば、かたくりの咲く早春の頃がよい。
16.自然葬の風景
昔は人は死ねば土に埋められるか、焼かれて、遺灰を野山にまかれた。たとえば、万葉集には次のような美しい歌がある。
鏡なす我が見し君を阿婆の野の
花橘の珠に拾いつ (巻7 1404)
鏡を見るように毎日見ていた恋人を、阿婆(あば)の野で焼いて、その橘の白い珠のような骨を拾った。さらに、そのあと、恋人の骨を清らかな山野に撒くのである。
玉梓の妹は珠かもあしびきの
清き山辺に撒けば散りぬる (巻7 1415)
特別な身分のある貴人は墓が造られたりもしただろうが、庶民は自然葬があたりまえのことだった。庶民がお墓を造るようになったのは、江戸時代幕府になって檀家制度が軌道に乗ってきたころからである。一つの墓に何人も入るという「先祖代々の墓」が一般化したのはずっと後で、明治30年代だそうだ。
こうして日本では自然葬はほとんど姿を消してしまったが、外国では遺灰を自然に帰すことは自由に行われている。たとえば、ネール元首相、周恩来元首相、アインシュタイン博士、エンゲルス、ケインズ、ジャン・ギャバン、ライシャワー元駐日米大使などなど。こうした有名人に限らず、アメリカのカリフォルニア州では全体の約30%が散灰だという。
私の夢はモンゴルの平原で夕日を眺めながら、ひとり誰も煩わせることなく、まただれからも煩わされることなく死んでいくことだ。死んだ後の体は、鳥たちがきれいに片づけてくれるだろう。そうして跡形もなくこの地上から消えることができれば、理想的な自然葬と言える。
17.万葉集との出会い
そんな私に、ある日転機が訪れました。それは夏の昼下がりのことでした。いつものように畳に寝ころんで天井を眺めていた私は、何となく枕元のラジオのスイッチを入れました。そのときNHK教育ラジオの連続番組で大阪大学教授の犬養孝氏が「万葉集」の話をしていたのです。私は特に関心もなくぼんやり聞いていました。犬養氏は十五分ほどの講義の合間に独特の節をつけて歌を朗読しました。その朗らかな声の調子に少し心が動かされた私は、翌日もおなじ頃にラジオをつけてみました。例によって犬養博士の朗読が聞こえてきました。
信濃なる 千曲の川の 細石も 君し踏みてば 玉と拾わん
犬養博士の話が続きます。
「これは東歌の中にある読み人知らずの歌です。少女が千曲川の岸辺にたたずんで、別れていった恋人を偲んでいます。恋人の青年が踏んでいったかも知れない小石を少女は清流の中から拾いあげます。その時少女にとってその石は石であって、ただの石ではありませんね。恋人の心がそこについている石は、彼女にとってどんな宝石よりも大切なものなのです。万葉の人々は人の心はこうして物につくと考えていました。この歌にもそうした古代人の心の厚みが感じられます。まったく人間の心の頼もしさを身近に感じさせる歌だと思います」
そうした内容の解説を聞きながら、私はいつか心が熱くなっていました。そして犬養氏の話を聞き終わると、思わず立ち上がりました。庫裏の窓の外に、境内で遊んでいる近所の少女達の姿が見えましす。今までうるさいとしか思えなかった彼女たちの声が、その時生き生きと私の心に響いてきました。私はサンダルを履くと、居ても立ってもいられずに、外へ飛び出しました。
私が下宿していた寺は卯辰山の麓の一寸した高台にありました。山門を降りると、昔東の廓があった色街に出ます。そこには紅殻格子の店々が軒を連ね、昼間から三味線や琴を習うの音が聞こえてきました。私は界隈を抜けて、浅野川に出ました。その川べりを歩きながら、先ほどの万葉集の歌を復唱してみました。そうすると、久しぶりに生きているという実感が蘇りました。そして、辺りの風景が清々しく私に迫って来ました。
私は河畔にたたずみ、折から清流の中で身繕いをしている鷺を見ました。それから対岸の風景や、空の色を眺めました。河畔の松並木では蝉が啼いています。夏の日差しに川面がきらきら輝いています。
「エウレイカ(見つけたぞ)」
私は心の中で叫びました。何を見つけたのか、言葉にはなりませんでしたが、これまで探しあぐねていた大切な真実を発見したような気がしたのです。
私はその足で大学の生協を訪れ、「万葉集」を購入しました。そして寺に帰るなりそれを読みふけりました。声を上げて読みながら、私は何度も涙ぐみました。もはや私は無気力な廃人ではないのです。砂漠でオアシスを見つけた旅人のような心持ちで、私は万葉の歌を味わい、自己の命を味わいました。
古代人のあまりに純粋で美しい生命力が私の心に乗り移り、私を生き返らせたのでしょうか。折口信夫の現代語訳のついた河出書房のその本は、二十年たった今もあの苦しかった時代の記念として座右に置いてあります。
(「人間を守るもの 第四章 鎮魂の世界」より)
18.人生の奇跡
去年の暮れだったが、若狭小浜にぶらりと出かけた。小浜は小学生時代にしばらく住んでいたなつかしい土地である。二つの川に挟まれて城跡があり、そこに昇ると、若狭湾が一望できる。小浜に来るたびに城跡にきて、そして誰もいなければ小声で「荒城の月」や「我は海の子」を歌う。
その城跡の近くに私が通った小学校があった。かっての通学路を歩いていると、橋のたもとから下る坂道で、たまたま自転車で坂を登ってくる少年と少女にすれ違った。二人ともまだ小学校の高学年という年頃である。
少年に後ろの少女が「もう少し待って」と声をかけた。この日本語はおかしいのではないかと思ったが、それより私が驚いたのは、少女の声が玲瓏と美しかったことである。若狭の訛があったから、微妙に標準語のアクセントからずれていたが、そこがまたよかった。
私は少し道をよけて二台の自転車と擦れちがったが、なんとなく振り返って、その少女が風の中を橋の上に消えていくまで眺めていた。声だけではなく、すがたも美しく、表情もやさしかった。この少女に出会うことで、小浜という小さな港町がいよいよ好きになった。
玉響 昨夕 見物 今朝 可 恋物 (万葉集巻11−2391)
たまゆらに 昨日のゆうべ 見しものを
今日の朝に 恋ふべきものか
「玉響」は「たまかぎる」とも読むらしい。また、折口信夫は「たまさかに」という言葉をあてはめている。このほかに「たまたまに」とか、いろいろな説があるようだ。私は「たまゆら」という言葉が好きなので、この歌はこう読んでいる。しかし、「たまかぎる」というのも捨てがたい。こんな名歌がある。
朝影に 我が身はなりぬ 玉かぎる
ほのかに見えて 去にし子ゆゑに (巻12−3085)
たまゆらに見えて去っていった少女によせる思いを詠んだ歌である。柿本人麻呂の若い頃の歌だと思われるが、口ずさんでいるうちに胸がときめいてくる。
「朝影」は朝日によってできる細長い影で、ここでは身のやせ細った様子を形容している。「玉かぎる」のカギルは、カグヤのカグと同根で、玉がほのかに光を出すところから、「ほのか」「はろか」「夕」「日」に掛かる枕詞になったようだ。
古代人は玉に魂が宿ると考えており、玉が触れ合うとき、中から霊魂が出てくると信じていた。「たまかぎる」という言葉にはそうした神秘な時代の響きが残っている。こうした力のある言葉によって、「去(い)にし子」へのほのかではかない思慕が、玲瓏と清々しく描き出されている。
学生時代から万葉集に親しんできた。おかげで、ずいぶん情操がゆたかになった。「たまかぎる」とか「たまゆら」という美しい日本語に出会えたことは、少し大げさかも知れないが、私にはそれこそ「いのち」のあらたまるような、人生の奇跡に思えたものである。
たまゆらの 少女はやさし ほのかなる
笑みを残して 風に過ぎゆく 裕
(2004年9月30日)
19.なびけこの山
古代の人々の思想や心情について知ろうと思ったら、神話や伝承を調べるのが一番だろう。さいわい世界にはさまざまな記録が残っている。なかでもギリシア神話は白眉だと言ってよい。
残念ながら私はギリシア神話を体系的に読んだことはなく、ホメロスの作品も断片的にしか知らない。しかし、ギリシア神話が描いている神々の世界は、人間世界の投影であろう。力強い神への憧れや讃歌はとりもなおさず、人間への讃歌であり、人間的なものに対する自信でもある。
人類がまだ未開の状態に置かれていた間、彼らを取り巻く自然の力ははるかに強大だった。自然の災害を前にして、人間の命など風前の灯火に過ぎなかっただろう。宗教の起源は社会的なものに違いないが、その根元に強大な自然に対する畏れがあったのではないかと思う。
農業革命が進展するにつれ、自然力に対する人間力の対抗が始まった。人間はもはや無力な存在ではなく、ときには自然に対して支配力を及ぼすこともできる。そして、やがてそうした人間力を体現する存在があらわれる。それが英雄であり、彼らの王であった。
こうした事情は洋の東西にかかわらない筈である。私が親しんでいる万葉集の歌で考えてみたい。こうした立場に立つと、万葉集について、また少し違った解釈が成り立つのではないか思うのである。たとえば柿本人麻呂の次の歌などはどうだろうか。(折口信夫訳)
山川もよりて仕ふる神ながら滾つかふちに船出するかも
(山や川も寄り合うて、天皇陛下にお仕えしているその急流の流域に、神様そのままに、みるも貴く、船を出していらせられることである)
大君は神にしませば天雲の雷が上に庵らせるかも
(天皇陛下は神様でいらっしゃるから、あの怖ろしい雷の上に、仮小屋を建てておいでになることだ)
「大君は神にしませば」という言い回しは、人麻呂の天皇賛美のようにもとれるが、実態は自然に対する人間の解放を歌ったものだと言える。「国つ神」に対する「天つ神」の優位を宣言したものだと言えよう。人麻呂は「天つ神=天皇」の中に人間力の象徴を見た。彼の天皇讃歌は、人間讃歌に至る序奏に他ならない。
このことを雄弁に語っているのが、彼が石岩国から妻と別れるときに歌った長歌である。
岩見の海 角の浦みを 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
よしえやし 浦はなくとも よしえやし 潟はなくとも いさなとり 海辺をさして
にぎたづの 荒磯の上に か青なる 玉藻奥つ藻 朝羽振る 風こそよせめ
夕羽振る 浪こそ来よれ 浪のむた かよりかくより
玉藻なす よりねし妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隅ごとに
万たび 顧みすれど いや遠に 里はさかりぬ いや高に 山も越えきぬ
夏草の 念ふしなえて しぬぶらむ 妹は門見む なびけこの山
最後の「なびけこの山」が凄い。この歌で、人麻呂は自ら神のごとき意志で自然に命令している。彼の歌の雄渾な調べの基調にあるのは、天皇制の賛美でも、自然への畏敬でもない。あくまでも人間に対する無限の賛美であり、信頼であったと言えるのではないだろうか。
こうした視点に立って万葉集4500余の歌をもう一度味わってみる必要がある。そうすれば彼の歌のみならず多くの歌が、千古の時をへだてて、我々の胸に生き生きと迫ってくるに違いない。
20.人生の応援歌
日本人として、将来の世代に残したいものの二番目に、「万葉集」をあげたい。1200年以上前に編纂されたこの歌集には、4500首をこえる大小の歌が収められている。天皇や貴族ばかりではない。そこには農民や防人、遊女に至るまで、すべての階層の人々の歌がそろっている。
このような詩歌集は世界でも例がないのではないだろうか。しかも、この歌集は単に古いだけではなく、その内容がこれまたすばらしい。万葉とは「よろずの言の葉」だというが、読んでいると本当に深々とした人生の森に踏み込んだような豊かな生命の息吹を感じる。
あしひきの 山のしづくに 君待つと
われ立ちぬれぬ 山のしづくに (巻2−107 大津皇子)
吾を待つと 君がぬれけむ あしひきの
山のしづくに ならましものを (巻2−108 石川郎女)
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど
見すべき君が ありといはなくに (巻2−166 大来皇女)
私が万葉集に出会ったのは、いまから30年近く前の大学生の頃だった。下宿の寺で何げなくラジオを聴いていて、犬養孝さんの「万葉の人々」という番組を知った。そこで解説・朗読された万葉集の歌がすばらしかった。以後、30年間近く私はその魅力にとりつかれ、誰彼となく身近な人にその魅力を語ってきた。この日記帳にも、これまで何度も書いた。
私が万葉集に惹かれるのは、そこに時代を超えた「人の心の原点」があるからである。言うまでもなくそれは「人を愛する喜びと、愛する人と別れる悲しみ」に集約される。しかもそうした人間の営みが、大きな自然のふところのなかで美しく哀切に歌われている。
そうした人生の哀歓を、精一杯歌った古代の人々の心の声が、そのまま現代に生きる私たちの人生への応援歌になっている。決してうわすべりでない、ほんとうに心の芯まで温めてくれる、心の栄養剤であり、心の強壮剤でもある、このかけがえのない歌集は、未来の世代の人々の心にも、爽やかな人生讃歌の灯をともし続けることだろう。
かにかくに 人はいふとも 織りつがむ
我がはたものの 白麻衣 (巻7−1298)
(人はいろいろ噂するかもしれません。でも、私を思って
下さる人のために、まっ白で美しい麻衣を織り続けます)
21.惜別の歌
仏教に「四苦八苦」という言葉がある。その最初が「愛別離苦」すなわち、「愛する者と別れる苦しみ」である。万葉集は「愛と死の歌集」だと言われるが、同時にそれは「惜別の歌集」だとも言える。
君が往く 道の長手を 折り畳ね
焼き滅ぼさむ 天の火もがも
(万葉集巻15−3724)
この歌を読みながら、私はふと曽我ひとみさんが夫のジェンキンスさんとジャカルタの空港で再会したときの情熱的な抱擁シーンを思い出した。曽我の気持も「焼き滅ぼさむ天の火もがも」ということではなかっただろうか。
この歌の作者は佐野茅上娘子(さののちがみのおとめ)で、当時何かの理由で越前の味真野に流されていた恋人の中臣宅守(なかとみのやかもり)にあてて書いた恋文だと言われている。万葉学者の犬養孝さんは「万葉の人々」にこう書いている。
<かなしい別れをしたあと、都の娘子と味真野の宅守とは折りに触れて63首の歌を贈答し、その中、娘子の歌は23首である。長期にわたる二人の折々の私の歌が、ともに公開されるという形で、どうして「万葉集」におさめられたかについても、やはり流罪の原因と同様に不明である>
別れと言えば、何と言っても防人の歌だろう。兵士として東国から九州へ徴兵された若者の多くが、異国の地で命を終えた。ふたたび故郷に帰ってきたのは一部だという。彼等の歌は万葉集巻20に93首、巻14巻に5首おさめられている。2首を引こう。
筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
愛しけ妹ぞ 昼も愛しけ
(巻20−4369)
霰降り 鹿島の神を 祈りつつ
皇御軍に われは来にしを
(巻20−7340)
二首とも関東地方から出てきた千丈という防人の歌だ。「筑波山の百合のようにいとしい人よ、夜だけでなく、昼間もこうしていとしくてならない」と恋人を切なく思いながら、その一方で、「すめらぎくさと、われはきにしを」と防人の決意をのべている。この両者を並べた万葉集の編者(大伴家持か)の心はいかなるものだったのか。
信濃なる 千曲川の川の さざれ石も
君し踏みてば 玉と拾はむ
(巻14−3400)
私が大好きな万葉集の東歌なので、何度でも引用したくなる。この歌は作者未詳で、おそらく民謡として庶民の間に歌われたのだろう。娘は河原で恋人と別れをした。恋人は旅に出たのだろう。それが都まで年貢を届ける旅か、あるいは防人として九州へ行く旅か、いろいろ想像させられる。
信濃の山嶺はまだ白く、千曲川の水も冷たい。
その流れの中に、恋人と別れたばかりの少女がたたずんでいる。
少女の足元の清流を透かして、川底の小石が見える。
彼女は腰を屈めてその一つを取上げて、そして、つぶやくように歌う。
あの愛しい人が踏んでいった小石を、
これからはあのひとのように、
宝石のように持っていよう。
大学時代、私はこの歌をNHKラジオの講座で、犬養孝さんから教わった。そのとき、犬養さんは、特攻隊で息子を亡くした両親が、特攻基地のあった場所を訪れ、大切に小石を拾って持ち帰っていったというエピソードを紹介していた。
愛する者と別れるのはつらい。しかし、この悲しみを避けるには、愛することをやめるしかない。万葉の人々は、それができなかった。全身で人を愛し、そして全身で、愛する人との別れを悲しんでいる。まるでそれが、生きることの証だといわんばかりに。
22.わたしの三輪山
私の通勤路は木曽川の堤防だが、そこから対岸にこんもりとした丸い山がみえる。この里山を私はひそかに「三輪山」と名づけて拝みながら、ときにはこんな万葉集の歌をつぶやく。作者は額田女王だという。
三輪山をしかも隠すか雲だにも
心あらなむ隠さふべしや (万葉集 巻1−18)
20年ほど前にはじめて山辺の道を歩いた。そのとき詠んだ短歌をもとに「明日香風」という歌集を作ったことがある。三首引いておこう。
三輪山をみつつしのびぬいにしへの
人のこころはやさしきものか
まろやかな小さき山を神と見し
人の心に神はやどりぬ
神やどる人のこころにほのぼのと
やさしき歌は生まれいづるか
古人が愛した三輪山は、日本人の信仰の原点であり、心のふるさとだ。そこに三輪大明神大神(おおみわ)神社があるが、この神社は三輪山そのものをご神体としているため、今も本殿はない。
私の「三輪山」にはもちろん社殿はない。神社に社を建てるようになったのは、仏教の寺院建築の影響らしい。内村鑑三が「信仰心があるところ、そこが教会だ」と書いていたが、麗々しい社殿など、ほんとうは必要ではない。
三輪山の杉は古来より神聖な霊樹として尊ばれていた。拝殿前の「巳の神杉」には雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉を祈った。現代でも、この杉の前には、巳(みい)さんの好物とされる卵が酒とともに供えられている。万葉集にこんな歌ある。
美酒(うまざけ)を三輪の祝部(はふり)が斎ふ杉
手触れし罪か君に逢ひ難き (巻4−712)
(三輪の神官が神木として崇めている杉に手を触れた罰でしょうか、あなたに逢えないのは)
もう三首、万葉集を彩る哀切な歌を紹介しよう。これは恋人であった十市皇女を失ったときの高市皇子の歌である。二人はともに天武天皇の子供で、高市皇子はその長子である。異母兄弟でありながら、二人はひそかに愛し合っていたらしい。
ちなみに十市皇女は額田王女の娘で、壬申の乱で破れた大友皇子の妃であった。十市皇女は夫の死後、高市皇子のもとにいたが、二人の仲を疑った天武天皇から伊勢に斎宮として下るように命令された。その直後の急な死であった。十市皇女は約26〜31才、高市皇子はおよそ25才だったという。
三諸の神の神杉夢にだに
見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き (巻2−156)
(三輪の山の神杉を見るように、夢にだけでもあなたを見ようとするのに、あなたを失った悲しみに眠れない夜が多い)
三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短木綿
かくのみからに長しと思ひき (巻2−157)
(三輪山の山の辺にある真麻の木綿が短いように、あなたの生命も短かったのに、私は長いものだと思っていました)
山吹の立ちよそおひたる山清水
汲みに行かめど道の知らなく (巻2−158)
(黄色い山吹の花が彩る山の清水を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない)
万葉集の歌にはこうした原初的な信仰心がしみとおっている。万葉の歌を魅力的にしているのは、森羅万象すべてのものに神が宿るという、この重厚な信仰心だと言えるかも知れない。
23.神奈備山考
万葉集を読んでいて不思議に思うことがある。それは当時の壮麗な宮殿や法隆寺などの大寺を詠んだ歌がほとんど見あたらないことだ。今日私たちが奈良を訪れると、そこには当時の文明を誇示し、権力の大きさをものがたる建造物がたくさんある。
例えば聖武天皇の御代には東大寺の大仏が国家的事業として鋳造された。ところが、万葉集のどこをさがしてみても、この巨大な大仏をまともに詠んだ歌は見当たらない。そもそも仏像を詠んだ歌もほとんどない。
相思はぬ人を思ふは大寺の
餓鬼のしりへに額ずくごとし (巻4−608)
たまたま見つければ、大寺の餓鬼をうたった他愛もない歌である。万葉集にうたわれているのは、どれもこれもほんとうに小さなことである。たとえば、万葉の人々は、恋人が踏んでいった何でもない小石を拾い上げて、これを宝物だと考える。これが万葉人に見られる際だった感性である。
彼等は小石に神を感じ、道端の名もない花に無尽蔵な愛情を感じた。妻と旅の途中に見た一本の木や、一緒に植えた花にかけがいのない愛惜の情をそそいだ。他者から見れば何でもないものが、たちまち宝物になる。そうした愛情のマジックを、万葉の数々の歌は見事に示している。
三輪山も小さな丸い山である。どうしてこんなどこにでもある平凡な山が神山となりえたのだろうか。三輪山に限らず、神奈備山はほとんど小さな山だ。山というよりむしろ丘といった方がいいものもある。
万葉集に富士山を詠んだ歌は11首ある。たしかに宮廷歌人である山部赤人や高橋虫麻呂が詠んだ歌は有名だが、他の歌は「富士山が煙を吐くように私も燃える心であなたを思っています」というたぐいの歌ばかりで、当時の人々が富士山にどれほど神性を感じていたか疑わしい。山高きがゆえに貴からずというところだろう。
当時の人々が神性を感じていたのは、もっと身近な山や木や岩だった。たとえば、800メートルあまりしかない筑波山は古くから「神々の住む山」として敬われ、なんと25首も歌われている。当時の人々にとって、富士山はただ高いだけの山だが、筑波山はもっと身近で、生活に密着した山だった。そして人々はそうした多くの恵みを与えてくれる山に、生産のシンボルとしての神性を感じ、愛情を感じたのだ。
私は三輪山は当時の人々にとって大切な里山であったのではないかと思う。そこは共同性の高い場所で、特別の日しか入れなかった。そしてこの里山の掟を守護する神が三輪大明神だった。そう考えれば、三輪山の神が蛇身をしているのも分かる。蛇は山を守る神であり、同時に水を守り、農耕を支配する神でもあったわけだ。
筑波嶺(ね)に雪かも降らるいなをかも
愛しきころが布乾(にぬほ)さるかも (巻14−3351)
(筑波山が真っ白になっているが、あれは雪だろうか。いや、そうじゃなかもしれない。可愛い娘たちが、さらしの布を乾かしているのかもしれないな)
これは恐らく、山の情景をうたったというより、男たちが女たちを前に掛け合いで歌ったものではないかと言われている。当時の若い男女は特定の日に山に入り、歌を詠みあい、気に入った相手と情を通じ合った。これを歌垣というが、筑波山はとくに歌垣の山として有名である。
三輪山でも同様のことがおこなわれていたに違いない。神奈備山というのは、このように人々の生活圏に接していた里山だった。そしてその近くに住む人々に生活の糧をもたらし、精神的な恵みを与えてくれる、大いなる自然の象徴だったわけだ。
私は万葉の時代の終わりを、筑波山信仰の衰退のなかに見ている。天皇を頂点とする律令制国家が成立したとき、日本一高く秀麗な富士山が日本の象徴となって、人々の心の中にそびえ立った。
どうじに筑波山や三輪山などの神奈備山が神聖をうしない、そこに繰り広げられた歌垣の豊穣な世界がみるまに失われて、古代信仰の香りにみちた万葉のゆたかな世界も、ついにその終焉を迎えたわけだ。
(ここに書いたことは、十数年前、私が仏教大学の国文科に籍を置いていたころ、卒業論文として構想したことだ。残念ながら、卒論は書けず、卒業もできなかったが、おそまきながら、ここに「万葉集入門」として、ようやく完成することができた。念願がはたせてほっとしている。2005年1月4日夜記す)
24. こころの旋律
春先になると、決まって口ずさみたくなる歌がある。有名な歌なので、日本人ならだれでも知っているだろう。
春の野にかすみたなびきうら悲し
この夕影に鶯鳴くも (巻19−4290)
わが宿のいささ群竹ふく風の
音のかそけきこの夕べかも (巻19−4291)
うらうらに照れる春日に雲雀あがり
こころ悲しも独りし思へば (巻19−4292)
これは西暦753年、大伴家持が36歳のときの歌だ。万葉集の詞書きに、家持は「和歌でも作らないと、この悲しみは払いきれない」と書いている。家持は何がそんなに悲しかったのだろう。
家持は29歳の時に、越中の守、つまり今の富山県の国司になって奈良の京を離れた。そして、34歳の時まで、5年あまりをこの雪深い北陸で暮らしていた。そして、都に帰ってきた翌年の3月、この歌を作っている。
大伴家といえば、父の旅人が大納言であったように、天皇家につかえる由緒ある名門だ。しかし、旅人は家持が14歳の時死んでおり、長男の家持は若くして父の跡を継いだ。しかし、当時の政治状況は大伴家に対してかなり厳しいものがあった。
大化改新で功績をあげた中臣鎌足の息子の藤原不比等や、そのまた息子たちの一族がのしあがり、権勢をほこるようになっていた。だから家持は京に帰ってきても、自分の居場所が定まらない淋しさがあっただろう。
あるいはそれ以上に、家持の心を占めていたのは、すでにない父や、弟の書持とのなつかしい思い出だろう。11歳の時死別した母の思い出も、久しぶりに味わう故郷の春の景色の中に浮かび上がっていたかも知れない。
吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに
心むせつつ涙し流る (巻3−453)
これは730年、家持の父・旅人が太宰府から奈良に帰ってきたときにの歌だ。旅人は妻と一緒に太宰府に旅立ったが、そこで妻を亡くした。旅人が奈良の家に帰って眺めた梅は、亡き妻が植えたものだった。妻がいないので、花を一緒に眺めることができない。その悲しみが、旅人にこの歌を作らせた。
家持の死んだ母が植えた梅の木は、成人した家持の目の前にあったかもしれない。そして、家持は父・旅人の歌を、その悲しみとともに思い浮かべただろう。家持の春の歌の背後にただよう哀感は、こうしたところにも根があるのかもしれない。
いずれにせよ、この三首は、万葉集の4500首あまりの歌の中でも、もっともよく人々に愛された歌だろう。雲雀があがり、霞がたなびく春先のうららかな情景が誰の目にもうかんでくる。そればかりではない。そうした叙景をとおして、家持の繊細な心のしらべが、私たちの心に伝わってくる。
朝床に聞けばはるけし射水川
朝漕ぎしつつ唄う舟人 (巻19−4150)
さかのぼること、3年前の3月2日、家持は越中の宿の朝床で、近くの射水川を漕いでいく舟人の唄に耳を澄ましていた。家持は川を漕いでいく舟人に自分を重ねている。そして、ひとり静かに、はるかな漂泊の思いをかみしめている。
もののふの八十(やそ)をとめらがくみまがう
寺井の上のかたかごの花 (巻19−4143)
これも、同じ頃に越中でつくった一首だ。近所のお寺の井戸に、村の娘達がやってきて賑やかに水をくんでいる。そのかたわらに咲きこぼれるかたくりの花。ただそれだけの歌だが、余情が感じられて美しい。
あるいは家持は寺井の近くに乱れ咲くかたくりの様子から、水を汲みに来ておしゃべりをしている少女達の生き生きとした姿や声を連想したのかもしれない。少女達が去って、かたくりの花だけが早春の光りの中にゆれている。単なる属目の歌ではなく、そうした静寂の中で、家持の想像が働いて歌われた歌だと考えると、味わいがさらに深くなる。
万葉集の歌と言えば、どちらかと言えば民謡調で、人前で朗々と歌い上げる情熱的なものが多い。そうした中で、家持の歌は少し趣が違っている。こころのかそけき調べにひとり静かに耳を澄ませるといった、孤独で内省的なものが出ている。農村的というより、都会的な感性を感じさせる。
家持の歌は万葉集のなかに400首以上ある。全体の1割以上の数だ。それらの歌を通して、家持は詩的で繊細な内面世界を自らの中に築きあげていった。そして、家持の発見したこうした雅やかなこころの旋律は、現代人である私たちのなかにも、たしかに生きている。
(2005,2,23)
25.愛と死を見つめて
掲示板に空さんが「性善説・性悪説」という題で、書き込みをしてくださった。その中に次の一節があった。
<もちろん人の決めた(善)は破られる。その意味では(性悪説)に拠らざるを得ない。しかしその(善)が本当に「善」なのかは疑問である>
これはとても深い言葉だ。「性善」「性悪」と言っても、それは人間が決めた「知識として蔓延している善悪」である。プラトンの言葉だと、それらが社会的偏見「ドクサ」でない保証はない。
それでは、真実「エピステメ」に至る智とはなにか。私は、「自分の頭で考えることを知っている人たちと議論すること」がその方法だと書いたが、他に道があるだろうか。もしあるとしたら、それは「啓示」や「直観」ということになるのだろうか。
プラトンは「人間は真実を知らないのではなく、忘れているだけだ」とも書いている。有名な「想起説」である。ときには、真実を「思い出すこと」も必要かも知れない。ふたたび、空さんの言葉を引用しよう。
<「ノイズ」があって錯誤を犯す人間もいる。感覚が上手く働かないのだ。心の一番奥から愛は流れて感覚を形成する。その心の声が聞こえない人間が多い。「ノイズ」の原因は人のつくった(善悪)だ>
これを読んでいて、私は柿本人麻呂の歌を思い出した。人麻呂が妻を石見の国に残して、都に登るときの歌だ。
笹の葉はみ山もさやに騒げども
われは妹思ふ別れ来ぬれば
山が騒ぎ、世間が騒いでいても、そうしたノイズに惑わされずに、ただ愛しい人のことを思い続けている歌人の純粋な心がしのばれる。
人間はそうした大切な感覚を大切にすべきかもしれない。あまりに世俗的な智にかたより、打算と欲望の世界に輪廻していると、そうした天上の美しい音楽が聞こえなくなる。
脳はただシミュレーションするためにあるわけではない。人や世界を愛するためにもある。生き残りのためのシミュレーションも必要だが、ときには万葉集の歌でもうたって、そうしたノイズの渦巻く世界の外に出ていき、大切な人間の心を回復させる必要がある。
(2005,2,27)
25.ちさの花咲く
5.ちさの花咲く
私の家の庭先に、ちさの花が咲いている。「ちさ」というのは、エゴの木の昔風の呼び名である。私は「ちさ」の方が好きだ。「エゴ」の木よりは、ずいぶん語感がよい。したがって、ちさの花と書く。
五弁の清楚な白い花が、うつむき加減に下を向いて、たくさん咲いている。やさしくて、かわいらしい花で、爽やかなかおりがして、いかにも日本人好みの花だ。万葉の昔から、歌にも詠まれている。
知左(ちさ)の花 咲ける盛りに 愛(は)しきよし
その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まずも (大伴家持 巻18−4106)
息の緒(を)に 思へる我れを 山ぢさの
花にか君が うつろひぬらむ (作者未詳 巻7−1078)
ちさの花は、やがてしぼみ、はかなく散る。そこで、恋人の心のうつろう姿を、このように可憐な花にたとえたのだろう。万葉集には「知左」という字があてられている。エゴの木というのは、実がエグイことからつけられたのだろうが、きれいな花がこの無粋な名前ではかわいそうだ。
万葉集に出てくるゆかりの花は、おもい草(ナンバキセル)、わすれな草(ヤブカンゾウ)、さきくさ(みつまた)など、いずれも美しい名前で呼ばれていた。古人のこころのやさしさ、愛情の深さがしのばれる。
<今日の一句> そよかぜに ほのかに匂ふ ちさの花
(2002,5,6)
26.万葉の大地
「万葉集」とのつき合いは、もう30年近くになる。十数年前に、これをもっと本格的に研究したいと思い、大学の通信教育を受けたりしたが、結局雑事に紛れて思いが果たせなかった。
しかし、今も、ときおり万葉集や、それに関連した書物を広げて、あれこれと瞑想に耽る。このひとときが、またとりわけ楽しい。万葉集は原生林の茂る大きな山のようでもあり、森と泉に囲まれた大地のようでもあるが、何よりも人間の心のふるさとである。人間の心の美しさ、情愛の豊かさを知りたければ、万葉集を読むのが一番である。
万葉集に「稲鬘」(いなかずら)という言葉が出てくる。上野誠さんの「万葉人の生活空間」によると、鬘(かずら)とは植物で作った髪飾りで、青柳やアヤメクサ、ユリ、橘などで作るものらしい。輪にして頭に載せるか、髪に挿したりした。
万葉集の中に、坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)が大伴家持に稲鬘を送った歌があるので紹介しよう。ちなみにこのとき坂上大嬢は18歳、家持は21歳である。時は天平11年(739年)9月で、二人は少し前に結ばれていたが、当時のしきたりに従って、別々に暮らしていたと思われる。
我が蒔ける早稲田の穂立て作りたる
鬘そ見つつ偲ばせ我が背 (坂上大嬢 巻8−1624)
坂上大嬢は耳成山のふもとにある竹田の庄(橿原市東竹田町)に母親の坂上郎女と一緒にいたらしい。家持のいた大伴家の邸宅は平城京の近くの佐保(奈良市法連町)にあって、竹田の庄までの距離は約20キロメートルで、馬を走らせれば数時間の距離である。この歌に、家持はこう返している。
我妹子が業(なり)と作れる秋の田の
早稲田の鬘見れど飽かぬかも (大伴家持 巻8−1625)
大伴家は由緒正しい貴族である。家持はその御曹司だし、いとこの坂上大嬢も深窓の令嬢であってもおかしくない。その令嬢が稲作りを生業としている訳はないが、田に出て、農作業のまねごとくらいはしたのかもしれない。家持の歌にある諧謔は、そうした妻への愛情でもある。
驚いたことに、坂上大嬢はこのあとさらに、身につけていた下着を家持に送っている。家持の「身に着る衣を脱ぎて家持に贈りしに報ふる歌」を次に引いておこう。
秋風の 寒きこのころ 下に着む
妹が形見と かつも偲はむ (大伴家持 巻8−1626)
古代では恋人同士や夫婦が下着を交換して、それをお互い身につけることで愛情を表現したようだ。形見というのは現代では死んだ人の名残を言うが、昔はそうではなかった。生きているうちから、おたがいに形見を交換し、それを見たり、身につけたりして相手を思っていた。
<今日の一句> 青葉打つ 雨音さやか 障子越し 裕
(2002,6,11)
27.蟋蟀は十色に鳴く
22日の夕方、妻を誘って木曽川まで歩いた。十五夜の月を観ようと思ったのだ。あいにく月はみえなかったが、木曽川まで歩く途中に、美しい夕焼け雲を見た。木曽川の対岸の空にも、夕焼けの名残があった。
名古屋市からこちらに引っ越して来た頃、一家で木曽川まで散歩したものだった。二人の娘も小さかったし、飼い犬のリリオ君も若かった。散歩にみんな喜んでついてきたが、今は妻がお義理でついてくる位である。
しばらく妻と並んで石段に腰を下ろし、河原の虫の声に耳を傾けた。以前にも書いたことだが、西洋には虫の声を愛でるという風はないようだ。日本人は脳の中で虫の声を「ことば」として聞くが、西洋人は「雑音」としてしか受け取らないらしい。たしかに西洋の小説を読んでいても、虫の声にしみじみ耳を傾ける主人公には滅多におめにかからない。それにくらべると、日本文学は虫の声や風の音に満ちている。
「私は、あの夜、早く休みました。電気を消して寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さなきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと思いました」(「きりぎりす」太宰治)
日本人は虫の声にいろいろな意味を感じ取る。同じ虫の声が、人によっては違った風に聞こえるし、また同じ人でもそのときの状況では違った風に聞こえる。仏教の修行僧が虫の声を聞いて、にわかに悟りを開いたという話も伝わっている。
私の頭にもふと「蟋蟀は十色に鳴く」という文句が浮かんできた。そして俳句や短歌もこの蟋蟀の声のようにはかないものかも知れないと思った。聞く人の心によって、短歌や俳句も雑音としか聞こえないだろうし、玉のように響くこともあるだろう。そんなあたりまえのことを、大切な人生のヒントとして蟋蟀に教えられたような気がしたのである。
夕月夜心もしのに白露の
置くこの庭に蟋蟀鳴くも (万葉集 巻八−1552)
庭草にむら雨降りて蟋蟀の
鳴く声聞けば秋づきにけり (万葉集 巻八−2160)
草深み蟋蟀さわに鳴く夜の
萩見に君はいつか来まさむ (万葉集 巻八−2271)
帰り道、垣根こしに萩の咲いている家があった。夜目にも見事に映ったので、明くる日の午前中に再び妻を誘って、散歩に出た。萩の咲いている家は無住のようで、結構大きな庭が荒れ放題になっていた。満開かと思われた萩もかなり盛りは過ぎていた。垣根越しに庭を覗くと、あかるい秋の日ざしの中で、こおろぎが幽かに鳴いていた。
<今日の一句> あるじなき 宿の垣根に 萩の花 裕
(2002,9,24)
28.万葉の旅(紀伊半島)
昨日、今日と一泊二日で紀伊半島を旅した。インターネットで知り合った仲間もまじえ、6人ででかけた。運転手はいつものように徳さん。大きな車なので、長旅でもあまり疲れない。車中で歓談ができて楽しかったが、運転手は大変だっただろう。感謝しています。
「万葉の旅」は今年で3回目だ。最初の年は奈良で一泊した。山辺の道を歩いたり、法隆寺へ行った。奈良市の旧志賀直哉邸も訪れた。そして去年は京都で一泊。琵琶湖湖畔へも足を伸ばし、寺寺の仏や観音さまを拝んだ。今年は最初、北陸の旅を予定していたが、例年にない寒さで積雪が心配されたので、急遽変更になった。
白浜に着いた頃、ちょうど夕暮れで、海岸から海に夕日が沈むのが眺められた。民宿の料理も最高で、温泉の露天風呂もよかった。南方熊楠記念館を訪れ、彼の業績をしのんだり、熊野古道にある美術館へも足を伸ばした。海あり山ありで、折しも紅葉の季節であり、南紀の豊かな自然を満喫した。
「万葉の旅」なので、ゆかりの万葉集の歌を上げておこう。まずは、私の好きな柿本人麻呂の浜木綿の歌一首である。
み熊野の浦の浜木綿百重なす
心は思へどただに逢はぬかも (巻4−496)
一首の意味は、「熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ」ということである。実際に海岸の近くに浜木綿が幾重にも葉を繁らせていた。この歌を口ずさみながら、古人の切ない思いに心を馳せた。
さて、斉明3年(658年)10月、斉明女帝は皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。飛鳥に留まった19歳の有間皇子は、蘇我赤兄に唆されて謀反を語り合うが、裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。11月11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。万葉集二巻には、護送の途中、岩代(和歌山県日高郡南部町)で有間皇子が自ら傷んで詠んだ辞世の歌二首がのっている。
磐代の浜松が枝を引き結び
ま幸くあらばまた還り見む (巻2-141)
家にあれば笥に盛る飯を草枕
旅にしあれば椎の葉に盛る (巻2-142)
岩代は車に乗ったまま通り過ぎた。万葉の旅としてはいささか物足らなかったが、その分、宿でカラオケを楽しんだり、市場を訪れたりと、愉快な旅ができて、おおいに満足した。東京や奈良に住んでいる仲間3人とも久しぶりに会えてよかった。また、来年も是非、このメンバーで一緒に行きたいものだ。
<今日の一句> 熊野路に 秋のゆたかさ 訪ねけり 裕
(2002,11,24)
29.かたかごの花
今日の起床は5時過ぎだった。いつもより2時間も遅い。しかし、充分寝たりたせいで、気分は爽快だった。一泊4000円のビジネスホテルだが、やわらかい羽布団だった。宿泊客も少ないようで、とても静かだ。フロントの女将さんも愛想がよい。
7時前に宿をでて、金沢駅のレストランでモーニングを食べた。コーヒーとバタートースト、サラダ、ゆで卵で480円。少し高いが、しかたがない。7:52に金沢発。高岡で氷見線に乗り換えた。途中海岸線の景色がよい。そのあたりが大伴家持が歌に詠んだ渋谷(雨晴し)海岸だった。
馬並めて いざうち行かな 渋谷の
清き磯みに よする波見に (巻19−3954)
磯の上の つままを見れば 根をはえて
年深からし 神さびにけり (巻19−4159)
渋谷を 指して我が行く この浜に
月夜飽きてむ 馬しばし停め (巻19−4206)
家持が眺めたであろう小島が沖に見える。そして遠く立山連峰の影。残念ながら雨の中にその輪郭はほとんど隠れている。能登半島の島影もどうようである。列車は海岸間際を走るので、晴れていれば絶景だろう。いつかふたたび来てみたい。
9:04に氷見着。すぐに折り返して、9:32伏木着。駅の観光案内所でパンフレットをもらった。大伴家持が29歳から34歳まで5年間を過ごした国司館跡まで歩いて10分で、伏木駅の正面の道が国府跡に建てられた勝興寺の参道になっている。途中左側の高台に家持の歌碑が建っていた。私の好きな「射水川」の歌が石碑に刻まれてあった。
朝床に 聞けば遙けし 射水川
朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人 (巻19−4150)
いまそこに伏木観測所が建っている。案内板の説明によれば、この高台に大伴家持の住居があったとのことだ。しばしそこに佇んで耳を澄ませてみたが、聞こえるのは傘にかかる春雨の音と、巷の低い物音だけだった。
射水川は今の小矢部川だという。しかし、家持の頃の川はその高台のすぐ下を流れていたという。これなら朝床に川音を聞き、舟人の唱う声も聞けたことだろう。現在はそこから川まで1キロメートルはあるだろう。背伸びをしても川面を視界に捉えることはできなかった。
勝興寺は国府の跡に作られた浄土真宗系の寺院である。家持に興味があったので、このお寺は素通りした。寺の隣が「かたかご幼稚園」である。家持の「かたかごの歌」からとった名前だろう。
万葉学者の犬養孝さんが特定した「寺井」の井戸が近くにあった。そこに犬養さんの書で家持の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
物部の 八十乙女らが 汲みまがふ
寺井の上の 堅香子の花 (19巻−4143)
「かたくりの花」という標識があったので、目を凝らした。それらしい葉が見えたが、花らしいものはどこにもなかった。通りがかりの人に聞くと、「早春の花といわれていますが、咲くのは遅くて、桜と同じ頃です」とのこと。
かたくりの花は見られなかったが、井戸の跡を眺め、犬養さんの歌碑を眺めていると感慨が迫ってきた。ようやくこの地に来たという思いがあふれてきた。雨の音まで、あたたかく心を潤してくれるようだ。
犬養さんは万葉集のなかでも「かたかごの歌」が一番好きだという。万葉集には約4500首の歌があり、家持の歌も470首ほどある。そうしたなかで、私もまた、ときとしてこの歌がいちばんよいと思うときがある。
私が万葉集が好きなったのは、大学生の頃NHKラジオで、犬養孝さんの連続講演「万葉の人々」を聞いてからだ。あれから30年がたったが、年輪を重ねるにつれ私はますます万葉の歌が好きになった。そして朝夕に万葉の歌を朗唱し、旅をし、文章を書いている。
万葉集との出会いは「かけ算の出会い」である。100が101になり、102になるのが「足し算の出会い」なら、100が200、300になるのが「かけ算の出会い」である。万葉集と出会うことで、人生観は変わり、私の人生は2倍も3倍も豊かになった。
犬養さんの「かたがごの碑」をあとにして、私は案内所でもらった地図をたよりに二上山のほうに歩いた。二上山は家持が何度も訪れ、歌にも詠んだ山だ。その山のふもとに、高岡市万葉歴史館があった。
入場料210円と安かったが、広い敷地に立派な施設が立っていて、大伴家持を中心にした万葉集の解説や展示が充実していた。犬養孝さんは亡くなるまでここの名誉館長だったという。碑の原本になった「かたかご」の直筆の色紙も展示してあった。
歴史館の屋上や内庭には、さまざまな万葉集ゆかりの植物が植えられていた。梅や椿の花が咲いている。そして、その一画に、かたくりの花が植えらていた。胸騒ぎを覚えて近づいてみた。
そこに紫だったピンクの花びらが二輪ほど雨に濡れそぼっていた。とうとう、私はかたかごの花にであったのだ。その可憐な姿を心に焼き付けて、私は快い感動にひたりながら、この北国の万葉の故地をあとにした。
(2005,3,28)
30.甦る家持の歌
万葉集は私にとって「かけ算の出合い」だと書いたが、そのような出合いをもうひとつ上げるならば、それはこの「日記」だ。日記を書く習慣がなければ、私の人生は違うものになっていたに違いない。
書くことは人生を何倍も深く味わって体験することだ。書かなければ残らないものが形になり、私の中に根を張り、そして新しい人生を育てていく。旅から帰り、道中を追体験しながら書いていると、その感を深くする。
大伴家持は15歳の頃から歌を詠み始めた。彼が残した470首の歌もまた彼の人生を形作る栄養素だった。歌とともに彼の人生がゆたかになり、彼はまさに家持その人になった。とくに越中での5年間は彼にとって決定的だった。彼はこの時期に生涯の半数以上の歌を詠んでいる。
万葉集の最後の歌は、759年元旦、42歳の家持が詠んだものだ。それは彼が因幡の国司として、国郡司らを饗応した席での新年を言祝ぐ歌である。
新しき年の始めの初春の
今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと) (巻20−4516)
高岡市万葉歴史館の展示パネルのひとつに、万葉歌人たちの生存期間を一覧にしたものがあった。それを見ると、柿本人麻呂は大伴旅人や山上憶良よりも後に生まれて、早く死んでいる。もっとも旅人や憶良の歌はいずれも人麻呂の死後のものである。
また、家持の青年時代には、山辺赤人や高橋虫麻呂が活躍していた。盛んに宮中で和歌が詠まれ、和歌は詩文の中心にあった。しかし、家持が「初春の歌」を詠んだ759年になると、これらの歌人たちはもうこの世の人ではなかった。越中で友情を深めた大伴池主でさえ、謀反人として処刑されていた。
家持は68歳まで生きた。しかし晩年の26年間、彼の歌は一首も残っていない。なぜ歌を残さなかったのだろう。彼は「歌わぬ歌人」になったという説があるが、それでは何故彼ほど才能や実績のある歌人が歌を捨てたのだろう。
私はその理由が何となくわかる。和歌が輝きを持っていた時代が終焉を迎えていたのだ。もはや家持がどんなによい歌を詠んでも、だれもそれを評価できなかった。そうした孤独と逆境の中にあって、家持は万葉集を編纂し、これを後世に託したのだろう。
家持は死後、謀反の罪を着せられて官位や財産を剥奪されている。やがてその名誉は回復されたが、彼の歌が復権することはなかった。大正から昭和になって、彼の歌の文芸的な味わいや境地が人々に理解されるようになった。千数百年をへて、私たちの感性が、ようやく家持の後ろ髪をとらえたということだろう。
(2005,3,29)
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