第13回一豊公&千代様サミット 〜高知市〜 平成18年11月25日(土)・26日(日)
一豊公&千代様サミット開催趣旨
 山内一豊公と千代様ゆかりの市町のまちづくり推進者や歴史愛好家が一堂に集まりそれぞれの地域の歴史を振り返り
 ながら歴史をま学びまちづくりを考え参加市町の広域交流を図ることにより新たな交流の創造と地域の活性化をめざす。
木曽川庁舎を午前5時30分、32名出発。なお1名遅刻し、養老SAで合流。冷や汗が(笑)
明石海峡大橋での車中。なお、この橋の設計者は木曽川町ご出身です。
高知市文化プラザかるぽーと大ホールへやっと到着。時に午後12時30分。途中1名を置いて行く事態が!

会場案内看板

黒田小学校校長ご一行

ウェルカムドリンクでしばし休憩
いよいよサミット会場に着席!
第13回一豊公&千代様サミットいよいよ開始!

サミットの象徴。三っ葉柏

第19代ご当主ご夫妻 山内豊功様 正子様

サミツトゆかりの地の首長
開会式

岡崎高知市長 歓迎挨拶

山内豊功(トヨコト)第19代ご当主のご挨拶
地域で顕彰活動等を行っている方々5名が功労者として表彰されました。
 画像は本町と深い絆で結ばれた郡上八幡「山内一豊夫人顕彰会」会長の川上朝史さんです。おめでとうございます。
 なお、故国枝法音先生にh18/12/10(日)法蓮寺での偲ぶ会で故人のご家族に授与されました。
千代様の郡上生誕説等々を研究する川上さんは、h18.12.4(千代様没月日)おもいっきりテレビで放映されました!
アトラクション
 「高知リトルプレイヤーズシアター」と「帯屋町筋よさこい踊り子隊」の約60人によるミニミュージカル
 「千代様」。一豊の馬を千代がへそくりで購入する場面を子どもたちのうわさ話で表現
講演 「一豊夫妻から学ぶ〜顕彰から検証へ〜」 (財)土佐山内家宝物資料館 館長 渡部淳 氏

渡部淳 氏

江戸時代後期絵師による肖像画

正式な肖像画

安土桃山の武将は南蛮文化を取入れる

兄弟姉妹は公家や徳川家に通じていた

鉄砲を会得
一豊公は土地土地に家臣を召し抱える。最終的には2,000人。最古参の家臣は尾張黒田(現一宮市木曽川町)五藤・祖父江氏。高知城築城で石垣を作った近江の人、天守閣は加賀の人、水路を見出していた一豊公は和泉の人を。なお、現在高知城石垣を修復している業者は高知ではなく近江の職人とのこと。
近江の人は職人さんが多い!
「一豊公御武功記」によれば、天文14年「尾州葉栗郡黒田御土居」で生まれる。性格は物言いは穏やかで自身や他人について物を言わないが戦場では勇猛果敢である。酒は飲まず能や茶を若干嗜む。「まるぽちゃ」で「目赤い」
武功を得た太刀「よのやまの太刀」 武勇だけでは功名は×。公家との交流「蹴鞠の伝授」や茶会への参加あり

「無」の旗。明治か大正の古写真
一 豊 公 と 宗 教
日蓮宗
(法蓮寺 父盛豊公兄十郎の菩提)


臨済宗
(大通院二世 湘南禅師<拾い>)


曹洞宗
(真如寺 在川和尚の進言で徳川方に)
安定した土佐

大河ドラマでは浦戸入封に際し一領具足と交戦したように描かれているが井伊直政が平定し1601年に入っている。
一豊公の思いは受継ぎ1650年以降は安定した土佐の江戸時代となった

一豊公は信長に仕えていない?
秀吉に仕えていた!

←秀次(秀吉の甥)の宿老
<武家の重臣>

秀吉配下の官僚 石田三成 像→
〜小山評定での発議〜
は、堀尾吉晴の子忠氏の発案か?一豊公の同僚吉晴は隠居。この評定に参加したのは忠氏(右画像)である。
若かったので一豊公が代表しての発言か?ちなみに一豊公55歳。
千代様の諸伝説:@名馬購入伝説は山内家古文書には一切無い。一豊公没後100年新井白石「潘翰譜」のフィクション。A唐衣の小袖については五藤吉蔵(吉兵衛の子)の子の手記に記述はあるが天皇家に献上された行は無いB笠の緒の密書伝説は上中央の画像「譜牒余録」(幕府への報告書)により確かC大坂の情報を逐次土佐に報告。高台院との交流(=豊臣とのパイプ役)のもと。上右の画像「見性院書状」<土佐に薄色の山茶花があると高台院がおっしゃるので探し献上せよ>

高知市筆山山内家墓所一豊公墓碑

大通院一豊夫妻墓所

大河ドラマを通じ検証し後世に伝えたいものです
閉会式
首長会議により本サミットの目的でもある「功名が辻」の大河ドラマ化を果たしたので今後については意見集約をしつつ考えていく。
次回開催地は千代様ご生誕の地岐阜県八幡市で開催することが決定されました。
右画像は一豊公のぼり旗引継の様子です。

交流会 会場:山翠園ホテル「富士の間」
エクスカーション 〜高知城・県立文学館・土佐二十四万石丸ノ内緑地会場・日曜市散策〜