ラフティングのきっかけから現在

<はじまり> PROFILEのところにも記述してありますが、初めてラフティングをしたのは、93年頃(はっきり憶えてない)のGWにODSSにツアーに参加した時でした。その時は現在のようにラフトボートが船団となって10艇以上も川に出ていくこともなく、僕達だけでした。 このGWのODSSのツアー(アウトドアスポーツ免許皆伝コース)に2年連続で参加し、その年はラフティングだけのツアーにも参加しました。この時はラフティングといえばODSSのツアーにお金払って参加するということでした。
<長良川WWF参加> ラフティングだけでなくODSSの様々なツアー(クラブオデッセイという)に平均すると2ヶ月に一度ぐらい参加しているうちにODSS北川社長とも顔見知りになり、長良川ホワイトウォーターフェスティバルのことを聞かされる。96年のことである。北川社長だけでなく、ツアーの常連さんとも知り合いになっていた。そこで、仲良くなったツアーの常連さんとチームを組むことになった。その名もズバリ「オデッセイの常連の人達」である。この時ラフティングボートを初めて自分で操船することになる。この年はODSSの協力もあってラフティングボートを練習用に5000円で貸してもらった(何回使用しても5000円!)ただ、やはり5000円のレンタルボートだけあってセルフベイラーは装備がなく、バケツ持参であった(もちろん水掛用でなく、瀬の度に入ってくる水を掻き出す為のものである)。このボートで1ヶ月操船技術を自己流ではあったが憶え、また瀬の名前、ルートを覚えていった。
 僕がはじめて参加した第3回大会は4日間あった。1日目にダウンリバーがあり、2日目がレスキュウ、3日目がスラローム、4日目がオリエンテーリングという現在とは違い結構遊びの要素もある大会であった。この年、僕は初日仕事の為出場できなかったのであるが、確か26位であった。あんなへっぽこ練習でもビリにならなかったんだって大変ホッとしたことを憶えている。2日目のレスキュウは現在ない競技で、わざとフリップさせて起し、さらにスイマーを用意してこれをレスキュウしてからゴールするという内容の競技で、なんと8位に食いこんでむちゃくちゃびっくりした。3日目はあまり記憶にないが、まぁまぁでなかったかなぁ。4日目のオリエンテーリングは、ラフトしながらチェックポイントを周って答えを探し出すというものでこれも現在にはない競技である。こういう遊びの要素があると弱いチームにも勝算があるので復活しないだろうかと個人的には思っている。結局この年は総合20位という初参加にしてはまぁまぁという成績になった。
 第4回大会も前年とほぼ同じ内容だったと思う。僕もチーム構成も前年とほぼ同じ陣容で参戦した。結果は前年と同じぐらいであった。この年までダッキーも1チーム内で1艇は出場義務があり、ラフトと合計で順位が決められた。
 第5回大会から3日に日程が短縮され競技内容も現在とほぼ同じになった。同時に僕の苦難も始まる。チーム名もシンプルに「チームオデッセイ」とする。過去2年一緒にやったメンバーがラフトから引退してしまうメンバーが多くなってしまったのである。それでも妹を参加させたりしてなんとかギリギリの6名をかき集め出場した。初日は平日ということもあってスプリントを3名で戦い結果は一回戦敗退である。総合成績もビリではないにしても単に出場して記念品をもらうのが目的みたいになっていた。
 第6回大会も本当にメンバー集めに苦労した。第5回大会のメンバーが2名しか出場しなかったのである。僕はメンバー集めを勤務先に求めカヌーをしている同期関係を誘って出場した。最終日どうしても仕事の瀬に溺れ出席できなかったのでODSSのプロガイドを助っ人としたが、結果は・・・
 第7回大会。この年からダッキー部門(ダッキー単独で出場できる)が新設され、1チーム最低2名で出場できるようになった。ということでついにチームオデッセイも2名になってしまったのである。もともとエントリーが11チームしかなくてそのうち予選タイム上位8チームが決勝進出。決勝では2チームずつによる勝ちぬき戦となる。スタート前は予選通過できるかなぁぐらいの気持ちで臨んでみると3位であった。決勝1ヒート目を無難に勝ち4位以内が確定する。続く準決勝では相手にかなりの差を付けていたのにまさかの沈であえなく敗退。またまた間髪入れずに3位決定戦である。準決勝で体力使い果たしていた僕達はもぅ体力の限界を超えていて、最初からやる気が゜なく、4位になる。2日目のスラロームは前日の沈が怖かったので1本目チキンルートで攻める。他のチームがちゃんとゲートをクリアしていたので結果はあまりよくなかったので、2本目はなるべくゲートをくぐろうとしてやっぱり沈してしまった。結局8位。3日目のダウンリバーはスプリントの成績がよかったので順位を上げられるだろうと腹積もりしていたが、やっぱり体力の差か学生チームには及ばず8位。総合8位であった。
<R.C.NOAH参加> このままでは来年以降WWFの出場ができなくなってしまうという危機感を抱いた僕はネットの世界にメンバー募集することにしHPを作成することにした。そこでR.C.NOAHの存在を知り、またJ−RAFTINGの存在を知る。NOAHスタッフのKさん、TさんにNOAHと別に新しいチームを作ったらという提案を受け、J−RAFで知り合ったPというグループと尾張地方でチームを作ろうと画策した。しかし様々な事情からうまくいかなかった。
 僕がNOAHに参加しようと思ったのは、新チーム結成がうまくいかなかったことだけではなかった。クラブとしての体制がきちんとできていたことだった。ボートを3艇所有していること。レスキュウ講習会をクラブ内で開催して安全意識を高めていること。クラブの中心メンバーがクラブの運営をきちんとしていること。クラブ自体に活気があること。本当に川好きなメンバーが集まっていたこと等。僕がラフトクラブの目指すべき理想に近いものがあったからである。いや、実はこれまで自分が動かないと周っていかないチームだったので、子供がいる状況では十分な活動ができない、自分が運営に苦労していた状況から楽になりたいという思いがあったらからかもしれない。
 2001年は平均すると月一度ぐらいの参加であったが、自分にとっての前年までの状況(ラフトは年に一度行けるかどうか)を一変させノアのスタッフの仲間入りもさせてもらい自分のラフト史の中では充実した一年だった。(大袈裟?)
<R.C.NOAHでのWWF>
 ノアで2001年はラフトチーム2艇出場した。詳細は2001年第8回大会の様子へをみてもらうとして、大満足であった。結果については実力を発揮できたと思うし、なにより一年一緒に川で遊んで絆を深めてきた仲間と満足のいく結果を得られたことが非常に嬉しかった。