陽だまりと陰謀の時代

「自国の存亡に必要不可欠な悪徳であれば、評判を省みず実行すべきである。 」

治世の一杯を戦争に捧げた元首フォスカリがなくなり、彼の後継者達は数代に渡り戦後処理とフォスカリが残した遺産を発展させるのに費やした。
1464年、モデナ公国のエステ家がヴェネツィアの傭兵隊長として終身雇用契約を結んだ。契約の続く限りヴェネツィアにはからず他国との接触を禁じた契約書にサインしたのである。
これは事実上の衛星国化であった。
1467年、梟雄フランチェスコ・スフォルツァが亡くなると、十人委員会の名において、ミラノ公国に通達が発せられた。

「ミラノ公位は、フランチェスコ・スフォルツァ一代に貸し与えたものである。私称するべからず」

当然、スフォルツァ家は激高した。
しかし、元々よそ者でしか過ぎなかったスフォルツァ家に従うものは少なくスフォルツァ家はミラノを退去するしかなかった。
ミラノ市は血を流すことなくヴェネツィアにその門を開いた。

北イタリアをめぐって半世紀にわたりヴェネツィアと干戈をまじえたミラノがヴェネツィアに下ったことにより、周辺諸国は次々と従属していく。
1469年、ジェノヴァ共和国がヴェネツィアの保護を求めて従属。1471年、フィレンツェ共和国もジェノヴァに続いた。

ジョヴァンニ・モチェニーゴの治世の半ば、ヴェネツィアは司法改革に着手した。それまで、地方や都市に応じて教会やギルドなどに裁判を委託し徴収するだけの緩やかな支配を行ってきた。
領域が拡大するに従い、各地方ごとの法体系は中央政府を混乱させた。まだ領域が小さいうちは把握できていたのだが、フォスカリの時代に倍増した領土を効率的に統治する必要に迫られたのである。
ヴェネツィア市を皮切りに、古くからヴェネツィアの法が浸透していたギリシアの島々と次々と裁判所が設置されていった。
ヴェネツィアの役人が直接裁く、この裁判所の設置は本国ヴェネツィアの心配を余所に現地にすんなり溶け込んでいった。特に、商売がやりやすくなったと商人達は喜んでいた。
また、長く続いた戦乱により没落していったヴェネツィアの諸家門に新たな役職を提供することにもなり、貧乏貴族対策としても機能した。
特に元ビザンツ貴族の子弟はローマ法に明るく進んで裁判所勤務にいそしんでいった。
1489年、キプロス王国の女王が莫大な化粧料と引き換えに共和国にその領土を進呈した。
キプロスに莫大な権益をもっていたヴェネツィアの有力家門コルナール家の子女だったこの女性は、共和国の娘としてキプロス王家に嫁ぎ、共和国の出戻り娘として母国にキプロスを捧げた。
東方交易の一大基地であるキプロスがヴェネツィアの直接統治下におかれ、東方交易はますます盛んになり、東方の奢侈品がヴェネツィアの中央市場であるリアルト市場に溢れかえった。


西方からの逆風

「もっとも賢明な人たちでさえ、われわれにもたらされる情報としては最悪のものであると考えている」

1492年、ジェノヴァ出身の航海士コロンブスがインドに到達したというニュースがヨーロッパを駆け巡った。
だが、日を追うごとに報告されてくる情報からそこがインドでないことは明らかであった。共和国政府は念のため、アレクサンドリア駐在のヴェネツィア大使を通じカイロの高官に尋ねたが、フランク人の船がインドに来たことなぞないとにべもない返答を持ち帰ってくるにすぎなかった。

1499年、この年が運命の年となるとは知らず、ヴェネツィアは東方からもたらされる商品で溢れかえり繁栄を謳歌していた。
この年、フィレンツェ共和国がいくつかのギルドの要請に押し切られ、サン・マルコの旗に忠誠を誓った。
ただちに、この都市を事実上支配していたメディチ家は追放された。役職を失うフィレンツェの高官たちは沈痛な面持ちであったが、政府を支えてきた大ギルドの親方達は販路が広がると言って祝杯を上げていた。

この年の暮れ、リスボンに数隻の船団が帰還した。持ち帰った積荷は正真正銘の胡椒であった。
コロンブスが発見したインドが偽りのインドであるなら、こちらは間違いなく本物であった。
アレクサンドリアの大使に再度カイロの高官に問い合わせてみたところ、彼は押し黙って何も言わなかった。いや、言えなかったのである。
ヨーロッパの最果て辺境の小国ポルトガルは、このインド新航路に国運をかけていた。
周囲の国々が浪費だと揶揄しても、航海士をアフリカに送り続けた。
そしてその努力が結実し、インドへの新航路が開かれ胡椒がリスボンに届いたのである。

この新航路発見の効果は即座に現れた。たった数隻の胡椒がリスボンの王宮の年収を倍増させ、気をよくしたポルトガル国王は大規模な船団を組織しインドに送り出したのである。
一攫千金を狙う航海者はこぞってリスボンに集まり、その活気は静まり返ったヴェネツィアの市場とは対照的であった。
船団がインドに着くとインド洋を横断するムスリム商人の船を鹵獲し始めた。
カイロにはまったく積荷がとどかずヴェネツィアの東方交易に大打撃を与えた。
関税収入が激減したエジプトのカリフは紅海にいた艦隊をインド洋に送った。だが、石弓しか装備していないエジプトの軍船は大砲を装備したポルトガルの商船に完膚なきまでの敗北を喫した。
イスラム勢弱しと見たポルトガルはインド洋を我が物顔で横行し、アフリカ周り以外の航路の封鎖を行う。色をなしたのはアレクサンドリアで東方交易に従事していたヴェネツィア商人達であった。

共和国政府はただちにポルトガル王室に抗議したが、同盟国スペインの武力を背景に取り付くしまはなかった。ヴェネツィアの街は不景気に包まれ、商人が集まれば誰が破産し自殺したといった縁起でもない話題で顔を暗くするのが相場であった。
商業を監督する商業審議委員には任せておけないと、十人委員会が善後策を協議していた。
スエズ地峡に運河開削をすべきだという意見、むしろ、リスボンを封鎖すべきだ、いやポルトガル王室から新航路の交易権を買い取るべきだといった様々な意見が俎上にあがったが、コストとリスクの面からなかなかまとまらなかった。
青年貴族ピエトロ・ランドが提案したエジプトを征服しインド洋を征服すべきだという意見もあったが過激すぎるといって退けられた。

そんな中、十人委員会がとった対策は最善ではないかもしれないが良策に属する部類のものであった。
すなわち、黒海交易を活性化しインド洋を避けるルートに力をいれるというものであった。
そのためには、黒海交易の中心地カッファを直轄地として支配しなければいけなかった。

ジェノヴァ共和国は統治機関として破綻していた。ジェノヴァを実際支配していたのはサンジョルジョ銀行であった。ジェノヴァの都市貴族は皆この銀行に財産を預けていた。
そして、この銀行は共和国にかわってカッファ、レスボスといったジェノヴァの海外領を経営していた。オスマントルコが拡大するに従いサンジョルジュ銀行が抑えていた利権は奪われていき、ジェノヴァの黒海経営は低迷。
その上、ポルトガルの新航路ときては・・・。ジェノヴァもまたヴェネツィアと同じく不景気のどん底に突き落とされたのである。
もともと個人主義の強かったジェノヴァの商人たちは政府を見限り一旗上げようと次々とイベリアに旅立っていった。
だが、東地中海・黒海に既得権をもつ大貴族たちは先細って行く既存のルートにしがみついた。そして、少なくなっていくパイの分配をめぐり内紛に明け暮れたのである。
そんな折、ヴェネツィアから共同で黒海航路を拡充させないかと提案があった。コンスタンティノープルをおさえるヴェネツィアと手を組めば鬼に金棒である。そんな意見が大勢を占める中、一部の大貴族がヴェネツィアに飲み込まれ独立を危うくすると反対した。
だが、あらかじめヴェネツィアに耳打ちされていた一方の旗頭ドーリア家とグリマルディ家が武力をもって反対派を追放し、ヴェネツィアとの提携に踏み切る。
その強引なやり口が裏目にでてジェノヴァは内乱に突入。ヴェネツィアはジェノヴァに平和をもたらすと称しミラノに駐屯させていた大部隊を南下させジェノヴァを制圧してしまった。
そして、反対派が心配したようにジェノヴァの独立はすぐに失われることになる。

紆余曲折を経てジェノヴァを統治下にいれた1504年、ジェノヴァの後背地フランス王国と貿易協定を結ぶ。イベリア勢に脅かされた両者がともにイベリア商人に対抗する排他的な協定を取り結び市場を守ろうとするのは自然な流れであった。


ミラノとの死闘-北イタリア争覇戦-(1429-1457)
天国の門-教皇権との戦い-(1505-1539)