新体制

「個人に対する集団の優位、つまり個に対する公の優位こそが、ヴェネツィア共和国が例外的に長く存続した理由の一つである」

ビザンツ帝国、この死に体の帝国が地上から消滅したことは各国にセンセーショナルをもって伝えられた。
しかし、長らく帝国の危機が叫ばれていただけに人々はその滅亡を受け止める素地ができており、すぐに元の他愛もない日常に戻っていった。
フォスカリにとってビザンツの併合は彼の今後を決定付ける大きな意味をもっていた。
コンスタンティノープルの元老院とヴェネツィアの元老院の統合により、長らくフォスカリの政策実行の足かせとなっていたモチェニーゴ派の力が弱まったのである。
新しくヴェネツィア貴族に加えられたビザンツ貴族達は気位が高くなかなかヴェネツィア式になじんでくれない。
そして、なによりも拡大した元老院は迅速な意思決定に不向きとなったことは日常業務の停滞ぶりから明らかである。
このままでは有事の際に右往左往して何事も決定できないまま敗退しかねない。
そんな危機感がヴェネツィア市内に満ち始めていた頃、一つの事件が起きた。
東方の征服者として時代の寵児になっていた傭兵隊長カルマニョーラが捕まったのである。
ビザンツ征服後、ヴェネツィアにとどまり傭兵隊長として仕えていたが、周囲からもてはやされるに従い驕り高ぶり法外な報酬を共和国政府にたかるようになっていた。
ある日ミラノ公とカルマニョーラとが通じているといった讒言が政府の耳にはいる。

「金のないミラノ公にやつを雇えるはずがない」

と一笑にふしていたフォスカリだが、ミラノ公がカルマニョーラに提示したのは彼を婿として迎え入れるということであった。
継承権のある近親者が絶えて久しいミラノ公の婿になる・・・それは次期ミラノ公にしてやるということと同義である。
報酬に不満を抱いている傭兵隊長が隣国の有能な君主として君臨するのは共和国の未来のためにならない。
フォスカリは即座に治安維持機関である十人委員会にこの件をかけ、カルマニョーラの逮捕拘禁及び裁判、そして裁判がいかなる経過をたどろうと彼を死刑にすると決定したのである。
この事件を機に十人委員会に権力を集中させていくことになる。
後年、この機関がヴェネツィアの寡頭政の牙城として君臨することになるのである。
カルマニョーラを始末したフォスカリはミラノ公を中心としたロンバルディア同盟を切り崩しに入る。
1431年モデナ公およびマントヴァ侯をヴェネツィア連合に引き入れるのに成功。
翌年にはマントヴァ侯国を穏便に外交併合した。
ロンバルディア同盟が解消し、ヴェネツィアへの防波堤として利用していたモデナ公、マントヴァ侯を失ったミラノ公はティロル公を盟主とするシュバーベン同盟に入りヴェネツィアを牽制し続けた。


暗躍するミラノ
カルマニョーラの処刑後、ミラノとヴェネツィアの関係は日に日に悪化し、1439年ついに国境での小競り合いが大戦へと発展した。

盟主 ティロル           盟主 ヴェネツィア
    ミラノ                 フィレンツェ
     バーデン       VS      モデナ
    バイエルン              ヘルヴェティア
    ヴュルテンベルク

北伊、南独を戦場としたこの戦役は3年にわたり続いた。
シュバーベン・ロンバルディア同盟の主力はティロル、バイエルン、ミラノであり、ヴェネツィア連合の主力はヴェネツィア、ヘルヴェティアであった。
ドイツ諸侯はアルプスの山地で独立し周囲に傭兵を輸出し続ける好戦的な市民共和国をことに憎み、戦役の全般を通して、アルプスにおいて死闘を演じた。
一方、ヘルベティアがドイツ諸侯を引き付けてくれたおかげで、ヴェネツィアはティロル領トリエステとミラノ公国に全力を注ぐことが可能となった。
ヘルベティアを除くヴェネツィア連合を一手に引き受けることになったミラノは連敗を重ね、ミラノ公は心労を重くするばかりであった。
そんなある日、長年ミラノ公家に仕えていたユダヤ医師が処方した薬を飲んでまもなくミラノ公は帰らぬ人となった。
後年、そのユダヤ医師がコンスタンティノープルで豪奢にくらしているとのを見たという噂がささやかれるがすぐに立ち消えとなった。
長年ヴェネツィアの本土進出を阻んできた宿敵ミラノ公の急死が話題に上ったとき、フォスカリはいつも、

「偶然とは恐ろしいものだ。」

と一笑にふしていたという。
戦役の最中にヴィスコンティ家が断絶し、ヴェネツィアで傭兵隊長を務めていたフランチェスコ・スフォルツァが後釜に座ることを条件にヴェネツィアに降伏し従属することとなった。
ミラノが脱落し、アルプスの山奥で難渋していたシュバーベン諸侯はトリエステを割譲するからと和を請うてきた。ヴェネツィア連合はこれを受諾し第一次ロンバルディア戦役は終結した。
戦役はミラノの没落と、トリエステ獲得による領土の一体化を進める結果となり、ヴェネツィアのみを強化しただけで終わった。


梟雄スフォルツァ

「頑なかつ冷酷で、権力を握る機会を虎視眈々と狙っている・・・イタリアを支配したいという心の奥底に潜む欲望をかなえるために・・・」


1443年 盟友ヘルベティアがティロル公国から独立したシュトラスブルクに侵攻を開始。
さきの戦役での借りを返すべくヴェネツィアもヘルベティアを支援し参戦を決意した。
だが、この決定が新たな大戦にヴェネツィアを巻き込むことになった。
さきのシュバーベン同盟との戦いで強大化したヴェネツィアを周辺諸国は深刻な脅威と感じていたのだ。
トルコと交戦中であったにも関わらずハンガリーとリトアニアがシュトラスブルク救援に動いたのである。
また、ミラノで地歩を固めた梟雄フランチェスコ・スフォルツァが好機と見てサヴォイと手を組み独立戦争を仕掛けてきた。
さらに、1381年以降ヴェネツィアに地中海の覇権を明け渡していたジェノヴァ共和国までが参戦してきたのである。


盟主 ハンガリー         盟主 ヴェネツィア       盟主 ミラノ
    リトアニア      VS      フィレンツェ   VS       サヴォイ
    ボヘミア              モデナ
    シュトラスブルク          ヘルヴェティア  VS  盟主 ジェノヴァ

三正面作戦を余儀なくされたこの戦役は基本的に防衛戦争として推移した。
3万の陸軍を二つに割り、半数をパルマ、半数をトリエステに配置したヴェネツィアはその天険に拠り攻め寄せる敵を撃退し敵の出血を増大させていった。
有力な陸軍をもつヘルベティアは今回シュトラスブルクとサヴォイに挟撃されヴェネツィアを救援する余裕はなく、モデナ・フィレンツェは戦費に事欠き自国の防衛も危うい有様であった。
第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争の復讐と意気込みアドイア海にまで侵入したジェノヴァ艦隊はヴェネツィアのアドリア艦隊を難なく破り、アドリア海を我が物顔で荒らしまわっていた。
ジェノヴァ艦隊が目前に迫り、首都ヴェネツィアが半世紀ぶりに直接的な脅威に晒された。
市民は恐慌し、戦時国債は紙切れ同然の価格で売買され、銀行の臨時休業が相次いだ。
エーゲ海から回航した艦隊とダルマツィアに避難していたアドリア艦隊が合流し再度ジェノヴァ艦隊に挑むもまたも手痛い敗北を喫する。
この危難に際し、実力は買われていたが外国人であるために最高位まで昇れなかったオセロが新たな海軍司令官となり三度目の海戦に向かう。
二度の海戦で疲弊していたジェノヴァ艦隊は新提督が率いる艦隊をあなどり惨敗。
イオニア海まで追撃され艦数を半分以下に減らし壊走していった。

この海戦の勝利がヴェネツィア市民の愛国心に火をつけ国債が飛ぶように売れ、戦費調達がなり陸での反撃戦が開始される。
トルコとの戦争を切り上げたハンガリー王国軍はクロアチアに殺到していた。
クロアチアは今にも陥落しそうであったが、ヴェネツィア本国から送られた義勇軍とトリエステ防衛軍が合流しハンガリー軍と激突、半月にわたる死闘の末、ハンガリー軍はドナウ河の向こうに追い落とされる。
トルコとの戦いを含め十年近く戦争をし続けていたハンガリーは辺境の反乱が相次ぎこれ以上の戦闘継続は不可能となり形ばかりの賠償金で和平した。
ハンガリーとの和平によりシュトラスブルクから解放されたヘルヴェティアがミラノ公国に侵入、防戦一方だったロンバルディア戦線も好転し戦争は早晩終結するかに見えた・・・

しかし、運命は再び暗転する。フィレンツェが突如シエナ及び教皇に宣戦布告したのである。
かねてからトスカーナ地方及び中部イタリアの覇権をめぐって争っていた三者ではあったが、シエナの挑発と教皇の聖務停止命令がフィレンツェの世論をかきたて群集が敵の血を求め宣戦布告に至ったのである。
これによりヴェネツィア連合全体が教皇との戦いに巻き込まれることになった。
シエナ・教皇連合軍は待ってましたといわんばかりフィレンツェ領に殺到。
ジェノヴァ方面に軍を差し向けていたフィレンツェはなすすべもなく蹂躙されていくばかり。
ヴェネツィアにはフィレンツェから援軍の催促がひっきりなしにやってきていた。
しかし、優位に進んでいるロンバルディア戦線を重視するフォスカリはフィレンツェ大使に

「今救援軍をギリシアで編成している。しばしの辛抱を」

と虚構を伝える一方で、身内には

「身から出た錆ではないか」

と毒づくことしかできなかった。

1448年ついに、ミラノが屈しロンバルディアでの戦闘が終了。
ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァは再度ヴェネツィアの膝下に組み伏せられ、戦役中のことは不問に付すことで決着した。
ミラノを攻囲していた軍はそのままジェノヴァ攻略にとりかかり、翌年ジェノヴァも幾らかの賠償金支払いを条件に降伏。
ヴェネツィアに援軍を矢のごとく催促していたわりには二年以上持ちこたえているフィレンツェを側面支援するため、ヴェネツィア軍は教皇領に侵入した。
ヴェネツィアはまたたくまにローマ市郊外まで侵攻。また、ヘルベティアがシエナ共和国を併合し、独力では戦えないと観念した教皇はローマニャ、マルケの割譲を条件にヴェネツィアと和平し戦争は終結した。

1457年、元首フォスカリが亡くなった。アドリア海の覇者でしかいなかったヴェネツィアをギリシア正教会の守護者におしあげ、北イタリアの覇者へと導いた類稀なる指導者であった。
彼の治世は戦乱に明け暮れ領域を倍増させた。一方で、商業活動を停滞させもした。しかし、点と線からなる都市国家にすぎなかったヴェネツィアが面を支配する領域国家に脱皮し、自国の法が流通する広大な商圏を掌中におさめたことはヴェネツィア商業の発展を約束していた。
ヴェネツィア市民はこのカリスマ的な指導者が亡くなったその日、彼の死を悼み、半旗を掲げ、教会は一日中鐘を鳴らし続けた。

アドリア海の女王(1419-1428)
地盤沈下-西方からの逆風-(1458-1504)