天国の門

「神は我々に教皇職を与えたもうた。さぁ、楽しもうではないか。」

1514年、モデナ公国のエステ家が断絶し、公国はヴェネツィアに併合される。
これによりピエモンテ地方をのぞく北イタリアが単一の統治のもとに治められる事になったのである。
イタリアはピエモンテのサヴォイ家、ローマの教皇領、シエナを領するヘルベティア、北イタリアのヴェネツィア共和国、南イタリアのスペイン領と五分されているが、統治面積からすると北のヴェネツィアと南のスペインで分割しているといったほうが事実に即しているだろう。
いずれにせよ、北イタリアをほぼ掌中におさめたサンマルコの視界は南に向かざるをえなかった。

メディチ家出身のレオ10世が教皇に登極して数年、教皇庁とヴェネツィアの関係は悪化する一方だった。
教皇はフィレンツェを再びメディチ家の支配下に置こうとしていた。
また、ヴェネツィアにより奪われたローマニャ、マルケの両地方は教皇のものであるべきだとも考えていた。
彼は湯水のようにお金を使い、教会がヨーロッパ中から集める教会税をきれいさっぱり使い切ってしまうのである。
財政難に陥るたびに、フィレンツェ、ローマニャ、マルケを財源として取り戻すべきだと周囲に言い放った。
ヴェネツィアへの恨み節が高じ何度もヴェネツィア大使を呼び出し難詰した。
財源確保のために強化した免罪符販売がアルプスの北で宗教改革を呼び起こしたのも彼の浪費癖の結果であったが、彼の思考の中では最終的には「ヴェネツィアが悪い」となってしまうのである。
そして、1520年の夏この日も教皇レオ10世はヴェネツィア大使を呼び出し、ヴェネツィアの悪辣さを並び立て言った。

「ヴェネツィアを元の漁村にしてやる」

普段であれば、聞き流し取り繕うヴェネツィアの代表者がこの日は違った。
温和な笑みを浮かべながら

「猊下をただの司祭にしてさしあげますよ」

これが開戦の火蓋となった。
ヴェネツィア大使はただちにローマを引き払い、十人委員会に報告。
十人委員会はメディチ家が教皇庁を牛耳るようになってから、いつかこのことがあるかと思い準備していたため、ただちに軍をローマ近郊に展開した。
教皇は自らの軽口が招いた結果に驚いた。
そして、神聖ローマ皇帝兼スペイン国王カール5世に援軍を請うとともに急いで傭兵をかき集め防備を固めた。
教皇が急いで集めた傭兵はその数6万に達し、ヴェネツィアが教皇領周辺に配置した兵力とほぼ同数であった。
しかし、最新のマスケット銃を装備するヴェネツィア軍と装備がばらついている教皇軍とでは質の面では隔絶していた。
教皇軍はまっすぐ北上しフィレンツェ奪還を目指したが、フィレンツェにいたる街道の峠に築かれたヴェネツィアの強固な陣地に阻まれ停滞。
マルケ方面から駆けつけたヴェネツィア軍に横槍をいれられ壊走し、徹底した追撃をうけ教皇軍は壊滅する。

そのまま、ヴェネツィア軍はローマを包囲。
包囲下の最中に、戦争を引き起こした教皇レオ10世が急死する。
マラリアとも言われるが、遺体が変色し膨張したことからヴェネツィアによる毒殺がまことしやかに囁かれた。

レオ10世の死で戦争は終結するかと期待されたが、新たに選ばれたハドリアヌス6世はカール5世の家庭教師で皇帝の威光で教皇に選ばれた人であった。
彼はスペイン軍がナポリから北上する時間を稼ぎ、戦いを有利に進めた上で講和に移ろうと考えていた節があるが、スペイン軍を待っている間に急死してしまう。

続けざまに教皇を失った教皇庁は次の教皇をまたもメディチ家出身のクレメンス7世に託す。
クレメンス7世は即位するとすぐに教皇庁内部にヴェネツィアの暗殺者がいると疑い、徹底的に調査した。
その結果、典医であったユダヤ人医師に疑惑がかかり処刑してしまう。
時折現れるスペインの救援軍が包囲網を突破しローマを救援した。しかし、そのつど周囲に展開するヴェネツィア陸軍に撃退されローマは間欠的ではあるが数年に渡り包囲下におかれていた。
ヴェネツィアはスペインの救援軍を遮断するため、ジェノヴァに駐屯していた西地中海艦隊をティレニア海にさしむけ激戦を繰り広げる。 ヴェネツィア艦隊はスペイン艦隊とは質・量の面で互角の戦いを演じ、なかなか勝負がつかなかった。
だが、スペインの同盟国ポルトガルの船が地中海に進出するに及ぶと、イベリア側が質の面でヴェネツィアを凌駕し各地でヴェネツィア艦隊を撃ち破っていった。
ポルトガルの船に対し倍の船を当てなければ勝てないほど質的に隔絶しており、イベリアの船乗りはヴェネツィア艦隊を湖水に浮かぶお飾りとこき下ろした。

今まで、地中海に敵なく、ヨーロッパいちの海軍と自負してきただけに、ポルトガル船にたいする敗北はヴェネツィア市民に大きな衝撃を与えた。

「交易で負け、そのうえ海戦でも負けるのか・・・」

と街のあちこちで囁かれた。
地中海に進出したポルトガル艦隊は神出鬼没の活躍をみせエーゲ海・黒海を荒らしまわる。

開戦から5年たつ頃には、南イタリア及びシチリアがヴェネツィアの占領下におかれローマも開城し、陸での戦闘に一応の終止符がうたれる。
しかし、海上はイベリア勢の天下となっていた。
陸のヴェネツィア、海のイベリアといった形でバランスがとられていた天秤を傾けるために、十人委員会は一つの計画を企図した。

ジェノヴァに駐屯していた陸軍の将軍が突然、十人委員会に呼び出された。
身に覚えはないが査問かもしれないと不安に思いつつ現れた将軍に十人委員の委員長が声をかけた。

「将軍、冒険は好きか?」

「小官は軍人であり探検家ではありません」

「もっともだ。しかし、行き先はスペイン王都トレドだ。冒険かもしれないが、将軍の仕事だ」

これは奇策といってもよかった。
ジェノヴァに集結しているヴェネツィア艦隊を夜陰出航させ、バルセロナよりスペインに上陸。
一気にトレドに進撃しカール5世に城下の盟を誓わせるということらしいが、果たしてそううまくいくのか・・・

だが、スペイン国内は予想外にもろかった・・・
ヴェネツィアの大軍がバルセロナに上陸すると、ろくな防衛軍がおらずトレドまで一直線に進軍。
各地で慌てて募兵し防衛軍を組織している間に、トレドが陥落しカール5世は降伏した。
1528年、トレドにおいて講和が成立しスペインは南イタリアおよびシチリアを放棄しヴェネツィアに割譲。
また、教皇クレメンス7世は幽閉され、ヴェネツィアの意に沿う枢機卿団がクレメンスが自然死するまで教皇の権限を代行した。
以後、教皇はヴェネツィアの傀儡として存立することとなる。

また、この戦争はイタリア統一に大きく前進させただけではなく、もう一つの大きな収穫をヴェネツィアにもたらした。
トレドを襲撃した際、スペイン・ポルトガルのイベリア勢が独占していた新大陸の地図をヴェネツィアが手にしたのである。


西インド

「新大陸から上がる利益がスペインの興隆の元である。」

スペインの政治力がイタリアに及び、ヨーロッパの一大勢力として台頭。
その原動力は何かと十人委員会で検討したときにでた結論が新大陸ということであった。
トレドから強奪した地図に基づき共和国は移民政策を計画。
1530年より西インド諸島にむけて移民を送り出すことになった。

スペインが書き記した地図によると西インド諸島は砂糖農園を営むに最適の島だという。
これにより、地中海で唯一大規模な砂糖農園があるクレタの人々を移民として送ることになった。
かつてヴェネツィアがクレタを領有したとき、ヴェネツィアから多くの貴族の家門がクレタに人を送り土着しクレタの統治にあたった。
今度はそのクレタから西インドに人を送り土着させ統治し、砂糖農園を経営していくことになる。
スペインが新大陸に次々と砂糖農園を切り開いていったため、砂糖の商品価値は下落している。
しかし、依然砂糖の価値は高い。また、西インド諸島は新大陸の入口にあたる位置にあり殖民するには最適の地理的環境にある。
探検が進み、新大陸の全容が明らかになった際には西インド諸島を基点に開発することもできる。
こうして、ヴェネツィアの新大陸経営の端緒は西インド諸島から始まる。


異端審問

「呪術を使う女は生かしておいてはならない」

スペインから始まった異端審問の嵐はヨーロッパを吹き荒れた。
ヴェネツィアもその例外たりえなかった。
ヴェネツィア領は広大で、その領内にはアルプスの峰におけるカルヴァン派、スラブ・ギリシア地域におけるギリシア正教といったように多宗教が混在していた。
ヴェネツィアがほぼ統一しつつあるイタリアのみはカトリック一色であり、なおかつローマにはカトリックの総本山がある。
共和国の宗教政策としては領内に皆無のルター派には厳しいが、カトリック、正教、カルヴァン派、イスラムには寛容であった。
しかし、時代の趨勢上、共和国政府も修道会が個別に異端審問することを禁じなかった。ただし、政府として後押しはしなかったのではあるが・・・
イタリアの諸修道会ではヴェネツィア領の正教信仰地域を正しい信仰に回帰させるべきだという声が強く、宣教師が次々とエーゲ海の島々に渡っていった。


地盤沈下-西方からの逆風-(1458-1504)