ヴェネツィアは貴族政の国である。国政に参加しえたのは25歳以上の貴族のみで他の階級が参加することはなかった。他の二階級は権力から排除されていたが、政治への参加を要求する階級闘争を通じて権力を奪取しようとはしなかった。なぜなら、貴族支配体制のもと現出された社会的・経済的安定の恩恵を貴族と共に享受していた他の二階級、つまり市民と庶民は現状に満足せざるをえなかったからである。彼らは政治から排除された事を我慢さえすれば、現体制を覆す必要はなかったのである。それがゆえに、排他的な要素の強いヴェネツィアの貴族政が社会の安定を得るのに成功したのである。
・人民集会しかし、ヴェネツィアが建国当初から貴族政を敷いていたわけではない。ましてや、貴族が排他的な政治階級として政治を独占する状況がヴェネツィア史のすべてでは無かった。ヴェネツィア共和国の初期の時代から13世紀末まで、有力市民の集会である人民集会が重要な役割を果たしていた。1172年まで元首は人民集会で選出され、共和国の最高機関として機能していたのである。しかし、何を議決するか予想がつかず、しばしば暴動に走る傾向があったためあまり招集されなくなり、1172年全ヴェネツィア貴族の議会として大評議会がつくられたのである。これ以降、元首は大評議会で選出され、人民集会は「ここに諸君の同意を得て、諸君の元首を紹介する」という決まり文句で紹介された元首を承認する機関にすぎなくなる。だが、大評議会での元首選出は法制化されたものではなかった。そのためか、1289年には人民集会がヤコポ・ティエポロという人物を元首に選出するという事件が起きる。大評議会がヤコポ・ティエポロも候補に加えた上で、選んだのはピエトロ・グラデニーゴであった。互いに元首候補をかかげ、人民集会と大評議会の対立へと発展しかねないこの事件はヤコポ・ティエポロが自主的にイタリア本土のトレヴィーゾに蟄居することで事無きをえる。その八年後に、元首ピエトロ・グラデニーゴを中心としたメンバーによってセッラータという大評議会の改革が敢行されるのである。この改革により大評議会は強化され、人民集会はほとんど実権の無い名目的な存在となったまま1423年に廃止されることとなる。
・13世紀末までの貴族13世紀末までヴェネツィアには貴族階級はいなかった。確かに、個々の貴族の家柄というものはあったし、大評議会の設置以降はそこを拠点に政治の世界で活躍する貴族はいたであろう。しかし、集団としての力を振るい排他的特権を有した支配階級として君臨する貴族階級は存在しなかったのである。たとえ、元首であれ他の高官であれ特権を認められていたのは在職中だけであった。それゆえに、特権階級としての貴族階級が形成されることはなかったのである。
・セッラータしかし、1297年に始まるセッラータと呼ばれる大評議会の改革により状況は一変する。セッラータ、それはserrare「閉ざす」という言葉からきている。しかし、それは大評議会を閉鎖するという意味ではなく、大評議会のメンバーを固定し外に向かって閉ざすという意味を持っていた。それは1297年に大評議会を通過した法律から始まる。大評議会に席を置く現議員は全員、さらに4年前にさかのぼってその間議席を持っていたもので、「四十人委員会」の十二票を獲得できたものは、終身任期の議員とする。これがその法律の内容である。同時に、この法律は過去四年間たまたま議員でなかった人のために、翌年の議会を用意していた。
・従来の見方さきの法は大評議会を固定し、長期的には貴族階級を形成せしめ、貴族政へと至る大きな一歩であるのだが、セッラータが行われた時点での評価は定まってはいない。一般には、階級闘争というフィルターを通して、人民にたいする貴族寡頭政の勝利とみなされ、人民主権である人民集会に対する貴族政大評議会の優越をもたらしたものと考えられている。しかし、この見方ではセッラータの本質を見誤るおそれが強い。
・有力平民の台頭13世紀、貴族は既に社会的に平民とは区別される存在となっていた。政治面では、前述したように全ヴェネツィア貴族の議会である大評議会が最高機関として機能していた。経済面ではコレガンツィアと呼ばれる共同経営事業で主導権を確保し、商業活動で大きな役割を果たした。だが、13世紀中葉以降そうした貴族優位の社会状況は動揺することとなる。同世紀に行われた第四回十字軍を一大契機として、ヴェネツィアは飛躍的な経済発展を遂げる。それに伴い、平民の中に急速に経済力をつけ、同時に社会的影響力を増した有力者が大量に出現するようになった。彼らは次第に権力への参加を要求し始める。1260年代前後貴族に従属していたギルドは、一定範囲内での自治を獲得するのに成功した。1280年代には、平民内の有力者達が大評議会への参加権を要求した事により、社会的緊張が増大した。そして、1290年代、ジェノヴァとの二度目の戦争が発生し、クルツォーラの敗戦をはじめとしたジェノヴァ優位の戦況で戦争が展開していた。この時、この内憂外患とも言える状況を打開するために行われたのがセッラータであったと考えるべきであろう。大評議会に不満を抱く平民の有力者層を大評議会に加えることは国内の緊張を緩和し、貿易・内政・軍事を指導する指導層の拡大につながり外敵に立ち向かう体制を整えることとなる。
・議員数の急増実際、このセッラータには多くの平民を大評議会に加えたようである。F.C.Laneはこう論じている。1297年の改革が、大評議会から平民を締め出すものであったということは、実のところどの年代記の中にも記載されていない。というよりも、大評議会の議員選出の手続きを変更した1297年の法律そのものについて触れられていない。1350年頃書いたと推定されるアンドレア・ダンドロの年代記では「この元首はその委員会とともに、若干の平民達が大評議会に入ることが許されると言うことを命じた。」と述べている。また、これとほぼ同時代のジャスティニアーニの年代記でも「1303年1月、この元首のとき元首閣下ならびに他の貴族は、アッコンとその周辺から逃れてヴェネツィアに住むためにやってきた多くのシリア人の子孫と、既に述べたジェノヴァとの戦争で勇敢に振る舞った多くのヴェネツィアの平民とを、ヴェネツィア大評議会の議員にすることに決定した。」と述べている。これらの記述からうかがえるのは外国人と平民の大評議会への加入である。大評議会の議員数も1297年の589人から1314年の1150名へと急増していることから多くの平民が加えられたと考えた方が妥当である。
・終身議員セッラータはなにも1297年の法律だけで成し遂げられた改革ではなかった。1299年に通過した法律は元首と6人の元首補佐官によって推薦され、四十人委員会の過半数の賛同を得られた者を大評議会の終身議員とした。この法は有力家系に属さない人々にも門戸を開き、1297年の法律を補強する機能を果たした。このような大評議会の拡大を促す動きがある一方で、それを抑制していく動きが現れ始める。当初、大評議会の終身議員になるには四十人委員会の十二票をえればよかったが、条件が厳格化していき三分の二の票を取ることが求められるようになった。また、申請しながら承認を得られなかった者には300リラの罰金が科せられた大評議会加入の条件の厳格化により、大評議会に参加していない平民が議員となることはますます困難なものとなっていった。
・大評議会の閉鎖こうした大評議会拡大を阻害する動きの背景には新支配層の形成が進んでいたことが考えられる。すなわち、セッラータ以前の従来の貴族層と新たに大評議会に加わった平民との間で社会的な同化が進展し、支配体制を築きつつあったという事である。そして、1323年の法律により既に大評議会に議員を出している家系の間での議員の世襲が決定される事となる。これにより、大評議会のメンバーは固定され、それまで外に向かって開かれていた門戸は閉鎖される。ここに、セッラータは完成するのである。
・結論その結果、大評議会議員であるということが貴族である事を意味しだした。そして、この事が貴族に法的基盤を与えた。旧貴族と平民内部の有力者とが融合してできた新しい貴族階級はセッラータの完成によって排他的特権を有した政治階級としての地位を確立する。これ以後、1381年の対ジェノヴァ戦争での功績により30家が貴族階級に迎えられるのを例外として、クレタ戦争の戦費調達のため貴族の特権が売られる1646年まで一人として同階級へ新しい家系を加える事はなかった。平民内の有力者達を取り込む事で権限を強化した大評議会に、もはや人民集会は対抗できなくなった。これにより確立された大評議会を基盤とする政治体制は18世紀末のヴェネツィア滅亡まで続くこととなる。また、この支配体制下の安定した政治状況が14・15世紀の経済的発展を導くこととなるのである。
<参考文献>