「孔子」若き日の貧苦

  孔子は、姓を「孔」、名を「丘」といいました。

  しかし、孔子が「孔丘」と呼ばれるようになったのは、孔子が孔一族の者
 であると孔家から認知された十七歳ころのようです。それまでは何と名乗っ
 ていたかは不明であり、とにかく孔家から認知されるまでの間は、行き来も
 途絶え、孔子は父の墓がどこにあるかさえも知らないという母と子の二人の
 大変貧しい暮らしであったようです。

  それでは、どうして孔子が孔家から父「孔こつ」の跡取りとして認知され
 たのでしょうか。それは、孔子が十七歳の頃に母が死去したからです。

  この時から孔子も晴れて士人の仲間入りをしたのですが、もともと「野合
 の子」であったという事実はいつまでも孔子につきまとい世間からは白い眼
 で見られておりました。孔家に認知されてからも、世の人々の偏見と、虐げ
 られた貧困生活等、なにせ、早年時代の孔子に対する世間の風は、けっして
 暖かくなかったようです。

  「論語」の中で、孔子はこの時期の心情をつぎのように語っています。
『吾少くして賤し。故に鄙事に多能なり。』(子罕編)

(われ、わかくしていやし。ゆえに、ひじにたのうなり。)

・若い頃は貧困で、生活のためにさまざまな仕事をせざるを得なかった。
 そのために、つまらぬ仕事をいろいろ覚えてしまったのだ。

『貧にして怨むこと無きは難く、
      富みて驕ること無きは易し。』(憲問編)

(ひんにしてうらむことなきはかたく、
      とみておごることなきはやすし。)

・裕福になって謙虚でいるのはたやすいことだが、
 貧乏していて人や世間を怨まずにいられるのは容易ではない。


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近所のご隠居さんグループ