「仁(じん)」 と は 何 か ?      今泉正顕 著 「論語に親しむ」より・・・

  孔子の思想の真髄は「仁」にあると言えるほどに、頻繁に「論語」の中に
 登場してきます。
  また、孔子は、門弟たちが「仁とは何か」と尋ねるたびにその人それぞれ
 に応じた答え方をしている。では、いったい私達はこの「仁」をどのように
 理解すればよいのでしょうか?

  孔子がいみじくも言った「われ一を以って貫く」とは「仁を以って貫く」
 ことの意味で「相手に対する思いやりの心」が、すなわち「仁」と言えるの
 ではないでしょうか。
     
◆ 能く五つの者を天下に行うものを仁となす。
  恭・寛・信・敏・恵それなり。            [陽貨第十七]
  原文の意味・解釈

   「それを問うなら、次のことをやっているか、恭・寛・信・敏・恵の五つの実践だ。
    それが身につけば『仁』とは何かが自然にわかる。」

   これは、門弟「子張」との問答である。
   孔子はその定義の前に「お前たちは実際に、恭・寛・信・敏・恵の五つの徳を日常実践
   しているか。これが身についているのなら『仁』については、当然わかるはずだ。」と
   答えている。

   「恭」(きょう)はうやうやしく身を慎めば、人から侮られることはない。
   「寛」(かん)は心を広く持てば、多くの人が集まってくる。
   「信」(しん)は信用を重んずれば、仕事は任せてもらえる。
   「敏」(びん)はぐずぐずしないでテキパキと片付ければ、仕事ははかどる。
   「恵」(けい)は人に恩恵を与える人ならば、黙っていても人を動かせる。

   そんな人物ならば、言わなくても『仁』を理解することができるはずだ。

◆ 仁者はその言や訊(じん)、これを為すこと難(かた)し。
                            [顔淵第十二]
  原文の意味・解釈

   この文言が含まれる全文{顔淵(がんえん)第十二第三章}は次の通りです。

    司馬牛問仁、
    子曰、仁者其言也訊、
    曰、其言也訊、斯可謂之仁巳乎、
    子曰、爲之難、言之得無訊乎。

     司馬牛(しばぎゅう)仁を問う。
     子、曰(のたま)わく、
     仁者は其の言や訊(じん)。
     曰わく、其の言や訊、斯(こ)れこれを仁と謂(い)うべきか。
     子、曰(のたま)わく、
     これを爲(な)すこと難(かた)し。
     これを言うに訊なること無きを得んや。

   これは、門弟「司馬牛」との問答である。
   本当の「仁者」は仁を語らず。
   子張に『仁とは何か』と言われた時には、私は「恭・寛・信・敏・恵の五つの徳を
   身につけているか。もし身についているなら『仁』のことは話さなくてもわかって
   いるだろう。」と答えた。本当の仁者は、この恭・寛・信・敏・恵の徳を身につけ
   ることは、非常に難しいことを知っている。それだけに本当の仁者は、軽々しく仁
   については語ろうとはしない。すべて謙虚に控え目な態度をとるものだ。

◆ 己の欲せざる所を人に施すことなかれ。
                            [顔淵第十二]
  原文の意味・解釈

   「自分が嫌なことは、相手も嫌なはず、
    自分がして欲しくないことは、人にもするな。」

   これは、門弟「仲弓」との問答である。
   仲弓は、仁を行う方法を尋ねた。孔子はこう言った。「わが家の門を一歩出て、人
   に会ったら、その人がどんな人であれ、寛容に接するように『一期一会』の精神で
   お会いすべきである。また人を使う場合には、大きな祭礼を行うように厳正な態度
   で、また、温かな心で接しなければならない。
   自分が嫌いだと思ったことは、おそらく相手も嫌なはずだ。だから、自分がして欲
   しくないことを人にしてはいけない。そういう心を持って人に接する限り、人から
   怨まれるようなことはないはずだ。

◆ 仁者は己を立たんと欲して人を立て
  己を達せんと欲して人を達す。             [雍也第六]
  原文の意味・解釈

   この文言が含まれる全文{雍也(ようや)第六第三十章}は次の通りです。

    子貢曰、
    如能博施於民、而能濟衆者、何如、
    可謂仁乎、
    子曰、
    何事於仁、必也聖乎、堯舜其猶病諸、
    夫仁者己欲立而立人、己欲逹而逹人、
    能近取譬、可謂仁之方也巳。

     子貢が曰わく、
     如(も)し、能く博く民に施して、衆を濟(すく)わば、何如(いかん)。
     仁(じん)と謂うべきか。
     子、曰(のたま)わく、
     何んぞ仁を事とせん。必らずや聖か。
     堯舜(ぎょう・しゅん)も其れ猶(な)お、諸(こ)れを病(や)めり。
     夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ逹せんと欲して人を逹す。
     能く近く取りて譬(たと)う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。

      <注>子貢は孔子の後継者、そして財産家として知られる人物。
         堯・舜(ぎょう・しゅん)は古代の理想的な聖天子。

   したがって、意味するところは
   門弟の子貢が尋ねた。「もし、多くの人たちに恩恵を施して救済することが出来た
   ら、仁者といってもいいですか。」
   孔子はこう言った。
   「人に施すことの出来る人は、仁者どころか、聖人と呼んでいい。あの聖天子と言
   われた堯や舜の王でさえ、なおそれを悩みとされた。」
   そして更にこう付け加えた。
   「そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行きつき
   たいと思えば人を行きつかせてやって、他人のことでも自分のことのようにひき比
   べることができる。そういうのが、仁の手立てといえるだろう。」

◆ 仁に里るを美と為す。
                             [里仁第四]
  原文の意味・解釈

   この文言が含まれる全文{里仁(りじん)第四第一章}は次の通りです。

    子曰、
    里仁爲美、擇不處仁、焉得知。

     子、曰(のたま)わく、
     仁に里(お)るを美(よ)しと爲(な)す。
     擇(えら)んで仁に處(お)らずんば、
     焉(いずく)んぞ、知なることを得ん。

   「仁」の心で生きる人は美しい。
   「仁」とは、相手への思いやりに尽きる。
   「仁」に安んじた生活が、一番幸福だ。みんな「仁者」を志そう。

◆ あとがき
   自動車王、ヘンリー・フォードは次のように言っている。
   「もし、成功の秘訣があるとすれば、それは、他人の立場を理解できる能力という
   ことになる。」
   すなわち「自分の立場からものを見るより、他人の立場に立ってものを考えること
   の出来る能力」を持ち合わせることでしょうか。


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近所のご隠居さんグループ