対馬に関わった過去の偉人の方のメッセージを紹介
まだ始めたばかりですが、徐々に展開していきます。

心を豊かにする言葉をまとめているサイトを紹介します。 
「Flow&Stock(フロー&ストック)」  

 次は、陶山 訥庵について考えたいと思います。
 雨森 芳州(あめのもり ほうしゅう)
(1668−1755)。

 対馬藩(現長崎県対馬)の儒学者。近江国雨森(滋賀県高月町雨森)に生まれる。儒学者木下順庵の門下に入り儒学を学ぶ。英才を賞され門下五賢徒の一人に挙げられた。同門下に新井白石がいた。

 順庵の推挙で対馬藩に仕え26才の時初めて対馬に赴任した。24才から中国語を学んでおり、36才の時には釜山に渡って、朝鮮の地理・歴史・朝鮮語を学び、初めての日朝会話集「交隣須知」を著した。

 語学力と豊富な知識を生かし、韓国通信史に最も貢献した一人であります。この経験をもとに61才に「交隣提醒」を著した。晩年は和歌を志し、80歳を過ぎて1万首を製作している。宝暦5年(1755)対馬で永眠、対馬府中(現厳原町)の長寿院に眠る。享年88歳。

交隣提醒(こうりんていせい)
(重要文化財)

 芳洲が61歳の時、対馬藩主宗義誠公に提出した対朝鮮外交についての意見書。豊臣秀吉の朝鮮侵略を「無名の師(いくさ)」と断言し、「朝鮮の風俗・慣習をよく知り、互いに欺かず争わず「誠信」の精神で朝鮮外交を行うこと」を説いた 「誠信外交」 として有名である。

 朝鮮の歴史や伝承、風俗や礼儀作法まで、正しく知ろうとしたのだ。日本と朝鮮とは、諸事風儀も嗜好も異なるので、日本の風儀をもって交わると必ず不都合を生じると述べるなど、当時としては卓越した識見の持ち主だったことがわかります。 

真の国際交流を実践した芳洲の業績は、近年とみに再評価されつつある。
「誠 信 交 隣」
(せいしんこうりん)

 雨森芳洲は、
相手の心(言葉・文化・習慣・歴史など)を知り、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ真の交流である
と唱えた。

 国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は誠信にあると説いたのである。
  「誠信の交わり」
とよく言われています。

「誠 信 交 隣」の思想は、国際交流だけでなく、身近な人との関わり方にも通じると思っている一人です。と言っても若輩者のですので世間との交わりは難しいなーとつくづく思っている今日この頃です。

芳州先生のお墓の長寿院は、私の祖母の墓がありますので親しみを感じます。高校の時に自転車を止めさせて頂いておりました。
感謝!感謝!
 宗 武志(そう たけゆき)
(1908〜1985)

 この方が我々対馬、豊玉、上対馬高校に
身近ににかかわっていたとは知りませんでした。
各高校の校歌の作詞者です。

対馬高校では、あさひはのぼりぬ---
学生歌 あーあーかぜかおる つしまなだー
対馬高校卒業の方は、生徒手帳、
卒業アルバムをみてください。

長崎県立対馬歴史民族資料館の入った右側に
先生の描かれた絵が展示されています。

インターネットで検索してみてください。
えーと驚きますよ。すごい方です。

ごく簡単にかきますと、
対馬中学卒業(現長崎県立対馬高校)。
旧対馬藩主 宗家第37代当主。
東京帝国大学文学部英文科卒業。
学校法人廣池学園常務理事等歴任。

どうして今まで知らなかったのでしょう。
はずかしい限りです。
       宗 武志

島も痩せたが
友も痩せた。
魚型を削りながら
だまって 潮を見る。
だが おれには夢がある、
言いさして 友は笑う。
深夜 世界図をひらく、
コンパスを取る、
島を軸に ぐるっと廻す。
           一九六四年
          新対馬島詩「序」
写真の詩は、厳原町の上見坂公園にあります。よく遠足でもいきました。
しかし、全く気づきませんでした。 

私も夢をもって頑張りたいと思います。
宗 義智(そうよしとし)
 初代対馬藩主(1568〜1615)

16世紀末〜生涯にわたって、韓国との国交回復に、
苦難苦闘しながら、決死の思いで、尽力された方です。
NHKの「その時歴史が動いた」でも紹介されました。

日本の歴史上あまりにも、すごい方なので説明は、
これまでとします。インターネットで検索してみてください。
私には、語る資格などありません。

恥ずかしながら、つい最近まで知りませんでした。
情けなーい。
肖像画は、インターネットで検索してください。
私には、掲載する資格などありません。 
宗義智公が48歳で亡くなる直前に倉野夫人に遺した言葉です。

対馬の政(まつりごと)は島形(しまがた)にせよ

気長くあせらずにという意味だそうです。ちょっと難しいですね。
 私も人生半ば、いろいろな事がありますが、先人の言うとおり、気を長くして、あせらず、時には休み、自分を見つめ直し、一日一日を着実にして誠実に過ごしていきます。

先人に敬礼。
野村望東尼(のむらもとに)
(1806〜1867)

幕末の超有名な女流歌人です。福岡藩士浦野重右衛門勝幸の娘。幕末の藩士を匿ったため、糸島の沖にある姫島に流刑となります。そこで、野村望東尼にお世話になっていた高杉晋作が、対馬藩達(小宮寛二 等)に助けるように依頼をし、下関の豪商白石征一郎のもとに身をおくことになったのです。
 肖像画等は、インターネットで検索してください。 高杉晋作が息をひきとる時、「面白き、事もなき世をおもしろく」 と時世の句を詠まれます。この時枕元にいた望東尼がこのあとを何と言いたかったのだろうと考えて、「面白き、事もなき世をおもしろく 住みなすものは心なりけり と下りの句を詠んだのです。  私の一句

面白き、事もなき世をおもしろく、皆の優しさ 多々ありがとう

なんて作ってみました。笑。すいません。
       

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