木曽川町の一豊くんが行く!木曽川町の一豊くんが思いを馳せます?
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金ケ崎の古戦場へ行ってきました! |クリック|    

敦賀港に面して芝生が広がる金ケ崎緑地。その北東側に小高い山が連なる。市民の山歩きの場でもある天筒山(高さ171メートル)と、金ケ崎城跡(同86メートル)。この辺りは今では敦賀市民の憩いの場となっているが、かつては歴史の転換点となる激しい戦が繰り広げられた古戦場。金ケ崎城は、三方を海で囲まれた天然の要塞。南北朝時代の1336(延元元)年。足利政権に対抗する後醍醐天皇は新田義貞に命じて、皇太子の恒良親王と皇子の尊良親王を金ケ崎城に入城させた。しかし、足利軍の総攻撃により翌年に落城。27歳の尊良親王は戦で亡くなり、十代の恒良親王も脱出後、毒殺されたと伝わる。
 城跡(約7ヘクタール)は国の史跡に指定されている。敵の侵入を防いだ堀の跡が所どころ残り、激しかった戦をしのばせる。だが、金ケ崎城がどういう建物だったかは定かでない。城跡の石碑近くには明治期に金崎宮が建立され、尊良親王らを祀っている。 1573(天正元)年一豊公28歳の時に織田信長が越前朝倉氏を倒すため、豊臣(当時木下)秀吉、徳川家康らとともに敦賀に入った朝倉攻め。一豊公が顔に矢を受けながら、朝倉方の武将 三段崎勘右衛門(みたざき かんえもん)を討ち取った。この死闘の舞台には諸説あり、正確な場所については定かではないという。しかし、急ながけの上にあり、日本海が見渡せる金ケ崎城跡に立つと、戦う一豊公の勇士が浮かぶ。金ケ崎の戦いは、「秀吉のしんがり」の舞台である。金ケ崎城の落城後、信長の妹婿だった北近江の小谷城主浅井長政が反旗を翻し、朝倉氏と連携して織田勢に対抗。信長は急きょ京都に退却したが、秀吉はしんがりを志願して金ケ崎城に残り、撤退を成功させた。秀吉の後の出世の足がかり。秀吉や一豊公で知られるが、歴史的には朝倉氏ら地元ゆかりの武将が敗れた悲劇の地。鎮魂の思いを込めて訪れる人も多いのか。